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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語65話】九州征伐追えた秀吉の凱旋茶会に官兵衛が出席しなかった理由

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天正十五年(1587)5月8日に薩摩川内の泰平寺で島津義久の降伏を容れた秀吉は、6月4日に博多の東郊の箱崎浜で凱旋帰途の陣を張り、7月1日までの約1か月を過ごします。

博多湾岸の浜を、約二里に渡って各武将の陣屋が設けられ、20万の兵が埋めたと伝えられる、この間。箱崎浜では多くの茶会が開かれ、博多の豪商・神屋宗湛の茶の湯日記中に「箱崎御陣之時」と特に題され記録されています。

秀吉に西下を命じられていた千利休も、宇治の新茶が手に入るのを待って箱崎浜へ入ります。
「豊前覚書」という同時代に成立した史料によると、箱崎浜に到 着した利休に対して秀吉は、早速、本陣に使っていた筥崎宮本殿横の神木・筥松の並びに茶室をあつらえることを命じます。

箱崎へと参着すると忙しく秀吉から仕事を仰せつかっていた利休ですが、宗湛日記の「箱崎御陣之時」の記録に顔を出すのは一度だけです。博多町人衆の宗湛・島井宗室・柴田宗仁を招いた茶席がそれです。

箱崎浜滞陣中に利休が宿所として使った恵光院の灯籠堂(筆者撮影)

箱崎浜滞陣中に利休が宿所として使った恵光院の灯籠堂(筆者撮影)

島津と終戦処理で遅れて博多に着いた官兵衛にまさかの「伴天連追放令」

秀吉箱崎浜滞陣の期間中に利休が行った茶事は、博多町人衆三人を招いたこの席のみで、秀吉と対座する会も、官兵衛を招いて手前を披露することもありませんでした。

イエズス会の記録によると、官兵衛は6月17日に箱崎浜へ着陣しています。恐らく官兵衛は、島津氏とのあい だの戦後処理を秀吉から命じられていたのではないかと思われます。肥薩境に滞在し、島津氏とのあいだでの様々な取り決めを行っていたのでしょう。

官兵衛の他、小早川隆景・加藤清正・佐々成政など、島津征討戦の前線で戦った武将の名前もやはり宗湛日記には出て来ません。彼らは、その後の国割りですばやく自領となる九州各地のへと散っていたことが考えられます。

実は官兵衛が到着した6月17日というのは、秀吉がその2日後に伴天連追放令を布告させることになる直前でした。その問題への対応で箱崎浜は騒然となっていたはずです。秀吉側近であり、かつ、敬虔なキリシタンであった官兵衛には、一日たりとも茶を喫する暇などあろうはずがない着陣後の毎日でした。

Frco Don・記

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つづく





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