日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

三成との暗闘の最中に水屋に貼った「利休流」の三ヶ条【軍師黒田官兵衛百物語80話】

更新日:

 

10月12日に放送された大河ドラマ軍師官兵衛「男たちの覚悟」で、やがて秀吉から賜死がある、つまり、切腹を命じられることを予測し、静かに受け入れることを決めている利休が、官兵衛へ最後の茶を点てるのに、茶の湯の神髄と伝えて進ぜましょうという意味のことを口にする場面がありました。伊武雅人演じる利休が茶筅(せん)を手にし、そそと茶碗向うと、同時にナレーションで茶を点てる上での心構えが流れます。

左から時計回りに、それぞれの決断をした三成、秀吉、官兵衛、利休(絵・霜月けい)

左から時計回りに、それぞれの決断をした三成、秀吉、官兵衛、利休(絵・霜月けい)

その内容は、

一 茶引候事 いかにも静二廻し 油断なくとゞこほらぬ様に引可申事
一 茶碗己下あかづき不申候様に度々洗可申事
一 釜之湯一ひしゃ く汲取候ハゝ 又水ひしゃくさし候て まとひ置可 申候 つかひ捨て のみ捨てに仕間敷候事

と、大変、素朴な三ヶ状でした。

この茶の湯の心構えは、実は、黒田家譜第十五巻「如水遺事」に、官兵衛が茶の湯の心得を三ヶ条にまとめ「定」として「如水茶堂の水屋に法度書をはりおかる」とある、慶長四年(1599)正月の日付が入った「お茶道の記」と呼ばれているものです。

三つの掟の後に「右我流にてはなく 利休流にて候間」と言葉を加え官兵衛は、決して官兵衛の我流でははなく、利休流の訓えなのだと断っています。その利休流として官兵衛が後代に伝えようとして水屋に貼っていたという、茶の心がけを利休自身の言葉として語らせたのにはなかなか上手い処理をしたものだな、と大河に感心しました。

慶長四年(1599)正月といえば、前年に秀吉の死によりにわかに遠征を終え朝鮮から撤退した後、急ぎ長政とともに上洛した直後のことです。翌年の関ヶ原の合戦への前哨戦となる洛中での石田三成ら、いわゆる豊臣奉行衆を相手にした暗澹とした政争の火中でした。

写真は、島津征討戦に合わせて九州へ下向した秀吉が宿所に使っ た博多箱崎浜の恵向院灯籠堂

写真は、島津征討戦に合わせて九州へ下向した秀吉が宿所に使っ た博多箱崎浜の恵向院灯籠堂

暗澹たる死闘の中に在って、利休の心にふれることで官兵衛は安らいだのだろうと想像されます。
なお、千宗室氏ら監修の利休大事典によれば官兵衛の「お茶道の記」にあるそれが「利休流」なる語の初出だということです。

スポンサーリンク

Frco Don・記
つづく





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-黒田官兵衛百物語, 黒田家, 名脇役
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.