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吉田松陰と松下村塾

若き松陰が萩の分藩で記録した「子供が書を脇に挟んでいる」【吉田松陰と松下村塾百物語11話】

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前回「心躍る21歳の松陰の長崎平戸への旅日記の1行目【吉田松陰と松下村塾百物語10話】」はこちら

旅の初日の嘉永三年(1850)八月二十五日、未明に清水口の家を出た松陰は、その日、凡そ十時間、十一里、約四十四キロを歩き続け、現在の山口県美祢市四郎ケ原に泊っています。

松陰の日記には一度、その名が出てくるだけで、年齢も、どのような性分の人だったかということも全くわからないのですが、新介という従者が一緒でした。翌日も、八里を二人は歩くのですが、この強行軍を従者の新介はどう思ったろうと想像させられます。

再び強行軍となる翌日の二十六日は清末藩領を歩き、長府藩領の赤間ガ関・現下関に至ります。

関ヶ原の合戦後、中国 十カ国を領有した輝元を当主とする毛利一門、毛利・吉川・小早川の三家は周防・長門の三十六万石に閉じ込められることになります。

その際、毛利輝元は従兄弟の秀元に長門国のうち瀬戸内海側の豊浦郡・現下関市、六万石を分藩し長府藩としました。更に、秀元の三男・元知に長府藩領のうち北側の一万石が分藩され清末藩となります。

清末藩毛利家菩提寺・高林寺(下関市HPより)

長府藩は、この日、松陰が歩いた十六年後の慶応二年(1866)に成立した薩長同盟に向けて本藩長州を支えつつ、薩長和解の交渉の窓口となって重要な役割を果たすことになります。

さて、清末藩領に入った松陰は、子どもが書を脇に挟んで行くのを目にしたことについて特記しています。また、馬を駆ける三人の 士卒を見たが、いずれも、縞の単衣に信州諏訪産の平袴姿で萩の人士と変わらないと記しています。

子どもが書を持つ姿に目を止めるのは、いかにも松陰らしく「西遊日記」中、他にも記述があります。分藩の人士の身なりが本藩萩とそう変わらないことについては、意外でもあり、安心もしてわざわざ記録したものでしょう。

清末を過ぎたところで松陰は足を痛め、馬に乗ります。小学生が遠足の朝、興奮のあまり熱を出すということがありますが朝から微熱を発してもいました。

長府藩領へと入り、主邑・赤間ガ関・現下関へ至ると街中には店を多く見るが、飲食に関わるものと日用雑記を並べる店ばかりなのは行旅の町だからかと、 武士としての生活と縁遠い街の様子をいかにもすげなく記しています。

長府の侍町(長府観光協会HPより)

夕方に至り、宿所の赤間ガ関亀山の豪商・伊藤木衛門邸へとはいります。

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