日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

吉田松陰と松下村塾

山口県の名産ながらも松陰が宣言した「ふぐは食べない」の真意とは【吉田松陰と松下村塾百物語12話】

更新日:

萩をたち旅を続ける若き吉田松陰は下関(山口県下関市)を訪れました。
下関の豪商・伊藤木衛門邸は坂本龍馬とお龍夫婦が2か月を過ごしたり、明治5年には明治天皇の行幸を受けるなど由緒ある邸宅でした。

木衛門邸は亀山八幡宮が鎮座する小高い丘の直下にありました。その亀山八幡宮の丘の上は、後に亀山台場となり大砲が据えられることになります。元治元年(1864)には英・米・仏・蘭4か国の連合艦隊の砲門から放たれてくる砲弾の雨のなかを松陰の弟子たち、久坂玄瑞や高杉晋作がこの台場の周りを駆け回り活躍することになります。

その台場跡である亀山八幡宮の丘に上り、目に入るのが本州と九州を隔てる関門海峡です。

松陰、龍馬夫婦、明治大帝止宿の亀山八幡宮直下の伊藤邸跡

松陰、龍馬夫婦、明治大帝止宿の亀山八幡宮直下の伊藤邸跡

文久年間には砲台が築かれた下関の亀山八幡宮

文久年間には砲台が築かれた下関の亀山八幡宮

フグはアヘンと同じ?

さて、関門海峡に面した赤間関(あかまがせき)、現在の下関はフグ料理が名物です。長州ではフクといいますが、松陰はこのフグ食について語る「河豚は食わざるの説」という文章を残しています。

志を持ち、これを遂げねばならぬ使命を持つ士が、ふくの味に釣られて万が一毒にあたって死ぬなど、これほど国家に損失なことはない。で、あるから私はふくを食することはない。

と、大袈裟に宣言している文章です。

江戸時代には、ふくの毒に当って死ぬ者も多く、城勤めの武士は藩からフク食を禁じられていたといいます。長州藩では特に厳しくご禁制とされていたそうです。それでも、その味の魅力に負けて、毒に当ることを恐れずに食べる人がいたのでしょう。

阿片の害に関わって英国とのあいだでアヘン戦争が起こり、清朝の領土の一 部が掠めとられるという、同時代に巻き起こったの歴史的事実が松陰を激しく国事に駆り立てた要因の一つですが、珍味を味わおう密かにふくを口にするような者は、阿片(アヘン)に手を出し国を危うくする連中と一緒だとまで松陰は言っています。

関門海峡海上からの関門大橋と、画像左手の赤間ガ関こと下関

関門海峡海上からの関門大橋と、画像左手が「赤間関」こと下関

スポンサーリンク

FrcoDon・記・写真

 





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-吉田松陰と松下村塾

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.