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井伊直弼/wikipediaより引用

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吉田松陰と松下村塾

「わび・さび」に埋もれて終わった人生もあったかもしれない「一期一会」の名言を残した茶人井伊直弼【吉田松陰と松下村塾百物語14話】

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徳川四天王のひとりとして知られている井伊直政が、関ヶ原の戦いの戦功から彦根藩18万石を拝領して以来、現在の滋賀県彦根市は幕末の15代・直弼、16代・直憲まで井伊家が治めます。

ご存知のように15代・直弼は、安政五年(1858)4月に大老に就任したのちに、朝廷の勅許をまたずに日米修好通商条約の調印を強行したことから攘夷派からの強い反発を招きます。そして、吉田松陰をはじめ活動家の大粛正におよぶ安政の大獄を指導します。

そうした流れのかなで、安政七年(1860)3月3日に、登城中の江戸城外・桜田門下で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名に襲われ落命します。44歳でした。

直弼は13代・直中の14男でした。長兄の直清がいましたが体が弱く、14代を三男・直亮(なおあき)が継ぎ、嘉永三年(1850)10月1日に直亮が57歳で病没すると32歳で直弼が15代を継ぎます。

四男以下の兄もいましたが、早世と三河挙母藩内藤氏、下総多胡藩松平氏などへ養子に出ていた事情があり14男の直弼賀継ぐことになったのです。

藩主となるまで直弼は埋木舎という庵を建て、書・絵・茶と芸道を楽しむだけの暮らしをしていました。茶は宗観という号をもち『茶湯一会集』『炭の書』『灰の書』『閑夜茶話』などの茶書を残しています。

「一期一会」という茶道に縁がない人でも知っている言葉がありますが、実はこの言葉は直弼が『茶湯一会集』の序文に記したのがはじまりなのです。

芸道で遊んで暮らしていた庵を「埋木」としたのは、自分などは世の中にでることもなく、埋もれたまま朽ち果てるだけの身なのだとなかば自嘲してのことからです。

数人いた兄達が元気でいれば、彦根藩主を継ぐ事もなく、大老の座などとは無縁に幕政ともほど遠いところで、わびとさびの世界に埋もれて終わる事ができたかもしれない、井伊直弼の人生でした。

FrcoDon・記

天正11年(1583)、織田信長や豊臣秀吉の下で名物茶器蒐集を主導した松井友閑(まついゆうかん)から秀吉へ献上され、慶長20年(1615)の大坂城落城の際、徳川家康が入手、戦功の賞として2代直孝(1590~1659)が拝領しました。井伊家累代の重宝として知られています。(彦根城博物館HPより引用)

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トップ画像は「井伊直弼」(Wikipediaより引用)





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