カーネーション

朝ドラ『カーネーション』のモデル小篠綾子~最期までパワフル人生92年をスッキリ解説!

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夫と父との永訣

当時、日本では急速に洋服が普及していました。
20代以下の9割が洋服を着るようになっていたのです。

綾子の事業が順調なのも、そうした時代の流れがありました。
街角にはモダンなドレス姿の女性も闊歩しました。
その日本から、僅か数年で鮮やかな服装が消えてしまいます。

戦争です。

1942年(昭和17年)、武一にも召集令状が届きました。
このとき弘子は幼稚園、順子は3才、三女が綾子のお腹の中。

「ほな、いってくるわ」
「うん……」
綾子は泣くわけでもなく、そう言うのが精一杯でした。

このあと一度だけ一時帰郷しますが、それが最期の別れとなります。
武一は1945年(昭和20年)、中支方面で戦病死を遂げてしまうのです。

出征前、武一は心斎橋で綾子にショールを買っていたそうです。
仕事一筋の綾子にとっては、数少ない夫との思い出でした。

『何か予感でもあったんやろか……』
綾子はそう思ったようで。

そんな彼女の元へ、父・甚一が武一の上着を持って来ました。
ポケットの中から出てきたのは、見知らぬ女性と映った写真。
「ああ、これな、武一さんのええ人や。女房が仕事ばかりしとったら、男はそういうことするもんやで」

浮気相手だと知らされ、綾子は憮然としました。
本人がいたら問い詰めてやるところですが、怒りをぶつけようにも相手はいないのです。
しかも、【仕事熱心なお前が悪い】とまで言われてしまう始末。

あるとき綾子は順子を海に連れて行き、こう語りかけたそうです、
「お母ちゃんと一緒に死のうか……」
夫を失い、三人娘を抱えて必死で働いているのに、芸者との浮気が発覚。しかも父には「お前のせいだ」と言われる。
気丈な彼女とて、さすがに耐えがたかったのでしょう。

綾子は海に叫びました。
「アホー!!」
それから娘を連れて、家に戻ったのです。

「いなくなって清々したわ」
娘には夫のことをそう語ったこともあるという綾子。その本心は、複雑であったことでしょう。

夫の出征から一ヶ月後、綾子は三女・美智子を自宅出産しました。

このころ、父・武一も死去。
火傷の治療のために逗留していた富山での出来事でした。

戦火の中、小篠家は女性ばかりになってしまいました。

 

ヤミやのうて工夫や

戦時中、奢侈は禁止され、贅沢な衣服は取り締まり対象となりました。
そんな中でも綾子は、工夫をこらします。

刺繍入り生地でワンピースを作り、模様の部分をコサージュで隠したワンピースを売り出したのです。
これが大評判で、飛ぶように売れます。

30円以上の品物が課税されたら、29円99銭にして販売。
赤字になることもありましたが、不足分を物品で補う客もいました。食料難の中でも、小篠家には物が集まって来たのです。

「あのうちはヤミで商売しとるで」
そう陰口をたたかれましたが、綾子はこう言いました。

「うちがしとるのは工夫や。ヤミなんかしとらへん」
綾子は才覚に長けた女性でした。
布地を買い集め、東北出身の縫子(ぬいこ・衣服の縫製に携わる人)さんを通じて米を貰い、生活をしのいだのです。
娘三人を抱えた彼女は、どんな手を使ってでも、生き延びねばなりませんでした。

小篠家からは、金属製のミシンが供出されることすらありませんでした。
綾子の様々な工夫のおかげでしょう。

太平洋戦争中のもんぺ/wikipediaより引用

 

母の背中と、恋と

昭和20年(1945年)、戦争が終わり新たな時代が到来しました。

三姉妹は成長しましたが、綾子は育児よりも仕事命でした。
授業参観にもろくに出ることなく、娘が気を引こうとするとこれみよがしに布地を裁断する、そんな母親であったのです。

綾子は娘たちにお稽古をさせました。花嫁修業でも何でもありません。
要するに、娘をなるべく家に置きたくなかったのです。
娘を追い出して、ともかく仕事をしたかったのでした。

そんな綾子も、仕事以外の趣味が出来ました。
社交ダンスです。
夜にならいに行くと、寝ている娘を起こしてダンスの振付を見せ始めたのです。

それだけではなく、綾子はなんと恋に落ちていたのでした。

思えば仕事一筋、周囲から言われるままに結婚し、その結婚もわずか数年で夫とは死別。
30を過ぎたばかりの綾子が恋の炎を燃やしたとて、誰が責められましょうか。

しかし……世間的には問題がありました。
相手は妻子ある身だったのです。

別宅を借り、堂々と交際する綾子とその男性に周囲は呆れました。

「私は間違ってへん!」
そう宣言する綾子ですが、周囲は許しません。
あるとき、よってたかって、彼女を糾弾したのです。

「あんたなあ、ええ加減にせえや。子供に気の毒やと思わへんの!」

しかし、ここでその娘たちは泣きながらこう言いました。
「私らええねん! これでかまへん」

子供に泣かれては大人も困るわけで、大人は退散しました。

娘としてはそりゃ複雑なのです。
たまに交際相手といる母を見ると、それまで見たことがないほど幸福そうな、花が咲いたような笑顔でいるのです。
おかあちゃんは、幸せなんやな……そう思ったわけですね。

 

コシノ姉妹の躍進

三人娘が全員デザイナーになった――。
さぞや英才教育を施したのだろうと思われがちですが、実はそうではありません。

そのことは、今までの記述からもおわかりでしょう。

しかし三姉妹の長女・弘子が高校を卒業した時、綾子は突如、進路に口を出しました。
美大志願に強く反対したのです。

頑固な母に逆らえず、弘子は受験を失敗します。
くすぶっている弘子に、綾子はこう勧めます。

「ドレメ(ドレスメーカー学院)行ったらええんちゃう?」

ハメられた!弘子は悟りましたが、とりあえず通うほかありません。
しかし他の生徒は花嫁修業の一環として通っているようなもので、弘子は物足りない。

一年後、文化服装学院への進学を希望すると、今度はあっさり、綾子は許します。

「おかあちゃんみたいには、絶対ならへんからな!」
そうツッパッていたはずの弘子ですが、あれよあれよと、デザイナーの道へ。
しかも才能がとびきりありました。

そんな姉の姿を見て対抗心を燃やしたのが、妹の順子です。
コシノ姉妹の上二人は、実は幼い頃からライバルで、何かあるごとに喧嘩していたのです。

そんな妹が、デザイナーの道を歩む姉への対抗心を燃やさないわけがありません。

順子は、文化服装学院への進学という、姉と同じ道を歩みます。
2年の基礎コースを1年で終えるという猛烈な学びぶりで、新人デザイナーの登龍門「装苑賞」を最年少の19歳で受賞するのです。

弘子は、2位どまりでした。
綾子に呼ばれて岸和田に戻っていた弘子は、複雑な気持ちで妹の報告を聞きました。

ここで順子は、意外なことを言い出します。
「あのな、銀座小松ストアーの仕事受けたんやけどな。お姉ちゃんと一緒やないとあかんて言ったんや」

こうして火花を散らしていた姉妹は、東京で共に仕事をするようになったのです。

その4年後、弘子は綾子からまた大阪に呼び戻されました。
大阪の一等地である心斎橋に「洋裁店を開いたらどうや」と持ちかけてきたのです。

綾子の奔走の甲斐もあって、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年に『クチュールコシノヒロコ』が開店。
その2年後には、順子が銀座に『COLETTE』を開き、ファッションがめまぐるしく替わる1960年代、その嵐の中心でコシノ姉妹が燦然と輝き始めるのでした。

 

末っ子もロンドンへ

三姉妹でも歳の離れた美智子は、おっとりとしていてマイペースでした。

子供の頃からテニスに打ち込み、着る物にはまるで無頓着。
しかし運動神経はバツグンで、学生時代には全国大会で優勝します。

この美智子がまた底知れぬ女性で。
高校卒業後に実家を手伝い始め、その後、結婚→離婚で再び家に戻ると、突如こう言いだし周囲を驚かせるのです。

「うち、ロンドンに行く!」

彼女は、姉二人のようにみっちりとデザインの基礎を学んだわけでもありません。
にもかかわらず1973年(昭和48年)にロンドンへ。
無邪気な末っ子ならではのパワーというやつでしょうか。

綾子から渡された金を使い果たしす等、様々な荒波を乗り越えながら、美智子もまた持ち前のマイペースと精神力で乗り切り、デザイナーとして一人立ちするのです。

こうして三人姉妹は、全員がデザイナーとなったのでした。

 

古希を過ぎてデザイナーに

そんな三姉妹のショーを誰よりも熱心に見ていたのが、母の綾子でした。

作家の藤本義一からこう言われます。
「コシノ三姉妹じゃなく、四姉妹やね」

綾子の中で何かが燃え上がったのでしょう。
なんと1988年(昭和63年)、74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを創設したのです。

しかも、娘たちのものをまんまパクったデザインまであるではないですか。

「おかあちゃん、これうちのデザインと同じやん」
「あんたら生んだのはおかあちゃんやねんから、どれもおかあちゃんの作品や」

すごい理屈ではあるのですが、これには娘たちも苦笑するほかありません。

エネルギッシュな綾子はタレントの才能もあったのか、テレビ出演することもありました。
88才の歳には、宝塚の病院でファッションショーを開催したこともあるほどです。

歩けなくなってからも人力車でファッションショーに登場する等、どこまでもエネルギッシュな女性でした。

娘から「そろそろ隠退したら?」と言われたとき、綾子はこう返ししました。
「うちのこと、殺す気か!」

休むことは、考えられない人生。
2006年(平成18年)に永眠するまで、彼女はデザイナーとして生き続けました。
享年92。

「さあ、人生これからやで!」
それが綾子の口癖でした。

生前、綾子は朝ドラマを見てこう言っていました。

「わたしもこんなん出たいわぁ」

その願いは叶います。
2011年朝の連続テレビ小説『カーネーション』。
彼女のエネルギッシュな人生は、日本中に活力を届けたのでした。

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文:小檜山青

【参考文献】
だんじり母ちゃんとあかんたれヒロコ』コシノヒロコ
人生、これからや!』コシノジュンコ

 



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