おんな城主直虎感想あらすじ

『おんな城主 直虎』感想レビュー 魂の総評【チャトラ編】※前編

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史料が少ない不利を物語の魅力に転じる技巧ぶり

本作は知名度が低く、史料が極端に少ないということを逆手に取った自由度の高さも魅力でした。
歴史上の重要な出来事にも、さりげなく違和感がないようにいあわせ、接点を持たせる超絶技巧には、終盤、毎回驚かされました。

前半は本格的な大河ドラマとは色合いがことなり、地味な展開も多く、若干中だるみもありました。
それでも、無名の主人公だからこそ、民の暮らしや苦しみに目線を向けることができたと言えます。英雄だけではなく、民衆も時代を作ってきたことがよくわかるドラマでした。

直虎を主役に据えるメリットは、劇中でも説明されていました。
誰かの妻でもなく、母でもない、そんな生き方だからこそ、様々な人の生き方に目を向けることができた——それこそ、本作が切り拓いた大河ドラマの新たな地平です。

直虎の高すぎる自由度を補っていたのは、竜宮小僧をはじめとした伝奇的な要素でした。
人ではない何か、あやかしの力が本作では働いてきました。
最終回で万千代の笛が、井伊谷へと勝手に持ち去られたような展開です。

こうした現実とあやかしの境界性を薄くする効果が、物語の魅力を増していました。
もしかしたら、不思議な力が働いて、直虎が時代を動かせたのかも……そう信じたくなるのは、ずっとこの不思議な力がそこにあったからです。

 

真田信繁「井伊にもここに至るまでの物語があるのだろうな」

昨年の『真田丸』で、以下の台詞がありました。

高梨内記「あそこにも赤備えがありますぞ」
真田信繁「あれは井伊直孝の陣。かの井伊直政の次男坊じゃ」
高梨内記「井伊でございますか」
真田信繁「向こうにも、ここに至るまでの物語があるのだろうな……」
高梨内記「一度聞いてみたいものですなぁ」

このやりとりは粋な来年へのエールとして話題となりましたが、今年きっぱりと、このエールにここまで見事に応えるとは思いませんでした。

昨年と今年は、時系列では逆となるものの、連続性のあるドラマです。
二作セットで見ると、より楽しめて、しかも納得できる作りとなっていたのですから驚嘆。

昨年の『真田丸』において、真田信繁と対峙した徳川家康は、戦の中で輝く者を否定すると宣言しました。
さほど接点も遺恨もない信繁相手に、なぜ家康はあそこまで敵意をぶつけるのか?
家康がそこに至る経緯を、今年は描いていたのです。

昨年の真田昌幸、そしてその遺志を継いだ信繁の父子は、侍たちのゲームを楽しむ側の人間でした。

騙しあい、殺し合い、自分の命すら賭けの駒とするスリルを、笑顔で切り抜けるふてぶてしさがありました。

今年描かれた武田信玄もあきらかにその側の人間で、ライバルの死を「死におった♪ 死におった♪」ダンスで喜ぶ姿はじめ、禍々しいほどの嫌な輝きを見せ付けてきました。

あの戦が楽しくて仕方ない様子は、まさに真田昌幸が師とあおぐ人物でした。

 

「こんな世は終わってくれ」と悲痛に暮れる戦国の人々

一方で今年は、侍たちのゲームに苦しみ、涙と血を流し、こんなものはもうごめんだと心の底から思った側の人間が大勢出てきました。

第一回、井伊直満の首桶がドンと幼い亀之丞の前に置かれたことを覚えています。
その瞬間、今年は何かとんでもない残酷さを突きつけてくるのではないか、という予感がしたものです。

その予感は、当たりました。
井伊直満の首桶に始まり、ぼやけたロングショットで映された武田勝頼の梟首まで、今年は首だらけでした。
井伊直虎はじめ井伊一族と家臣、徳川家康、今川氏真ら、そうした人々は悲鳴のように「こんな世は終わってくれ」と言動で表現してきました。

ああ、そうなんだ。
こういう人々の思いを山ほど家康は背負っていたからこそ、全力で信繁に立ち塞がったのだと、何度も納得しました。

 

戦の不条理をキッチリ理解した上でこれを否定する

「どうせ女大河だから、“戦はいやでございます!”とか連呼するんでしょう?」
そう鼻先で笑っていた視聴者もいたでしょう。

本作はイヤというほど執拗に戦国という世の残酷さを見る側に叩き込みました。
腹をボディブローで何度も殴られたような衝撃を受け、涙すら流しながら、
「い……戦はいやでございます……」
そう、うめいた人も多かったのではないでしょうか。

直虎は何度も「これも武家の習い、世の習いじゃ」とつぶやいています。
周囲からそう言われることもあります。
本作が「戦は嫌でございます!」大河とは一線を画するのはまさに、ここです。

武士なのだから。
こんな世の中なのだから。
世のならいだから。

直虎も、そのことはよくわかっています。
そうやってわかっていても、それでも嫌だと心の底から思っていたのです。

直虎は悲しみ、悩み、こんなことはもう終わりにしたいと悩み続けました。
悩むだけではなく、そんな中で苦しむ人を慈しみ、祈り続けました。
小野政次を死に追いやった近藤康用だろうが、長篠の戦いで破れた武田勢であろうが、彼女は救い、鎮魂のためにわざわざ経を読みました。

 

井伊直虎の人生が、直政を通して家康の人生という大河に流れ込み、歴史を変えたかもしれない――そんな無理があるような設定に説得力を持たせていたのは、「世のならい」を理解しつつも、そうであってはならないと、直虎が強く願い続けたことだと思います。

 

なぜ私たちは殺し合わなければならないのだ

本作を見ていて「乱世でなければ」と思う点は、登場人物の描き方にもあらわれています。

小野政直、小野政次、中野直之、近藤康用、今川氏真、酒井忠次織田信長と、
「途中まで嫌な奴だと思っていたのに、実は可愛げもあるナイスガイ」
というパターンが多くありました。

彼らは、主人公周辺の大切な人に対して、とてつもなく残酷な振る舞いをするわけです。
しかし、別の一面を見ると愛嬌すらある……むしろ根っからの悪人ではないと思えることもあります。

それなのになぜ、彼らが残酷で卑劣な行動に至ってしまったのかと考えてゆくと、戦国という殺伐とした世の中のせいではないか、と思い至るわけです。

平穏な時代ならば、ともに手を携えわかり合えた人であろうと、時代のせいで殺し合い騙しあわねばならない—そんな虚しさを感じました。

続きは【キジトラ編】です。

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