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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

一遍上人、最初は踊っていなかった? 苦労だらけの僧侶LIFE

更新日:

 

今日の主役は正応二年(1289年)の8月23日に亡くなった一遍上人です。
先日国指定重要文化財の「木造一遍上人立像」が消失したというニュースがありましたので、名前に聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。1239年の生まれなので、ちょうど50歳で亡くなったんですね。

庶民に鎌倉仏教が広がった 僧侶も苦労だらけだった

お坊さんというと「ただお寺にこもってブツブツ言ってるだけだろ」と思う方も多いかもしれませんが、この時代の僧侶はなかなか波乱万丈の人生を送っています。

時代としては鎌倉幕府ができて、源氏の直系将軍が絶え、北条氏が権力を握っていた頃です。
元寇も同時期(1274年と1281年)です。

武士系貴族の源氏が天下をとっただけでなく、さらに田舎の誰だか分からない人が事実上の国のトップになってしまったのです。あげくに、モンゴル軍が「ワタシ、この国欲しい」と来るのですから。もう、すべてが弱肉強食のニューワールド。

こうした社会情勢だからでしょうか、この時期には一遍を始めとして様々なお坊さんが新しい仏教を説いていました。
苦しくなると神仏頼みになるのは今も昔も変わりませんね。
6つくらい仏教のスタイルがまとめられた表を、暗記させられてイヤな思いをした人もいるのでは?

ちなみに一遍の時宗、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の法華宗(日蓮宗)、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗です。

建仁寺法堂/wikipediaより引用

多くの人に仏教を説いて理解してもらうためには、そもそもお経の中にある言葉がわからないといけません。
しかし、当時の日本は大多数が農民。
当然学問を身に着けた人はごくわずかです。
そんな状態では、今までと同じ方法で仏様の教えを広めようとしても上手くいきません。

そこで、「もっと簡単な方法で仏様に助けを求められないか?」と考え出されたのがこれらの鎌倉仏教なのです。

浄土宗は 「こまけぇことこたぁいいんだよ!みんなで”南無阿弥陀仏”って唱えればおk!」、

臨済宗は「ちょっと腰を落ち着けて、先生の出すクイズ(公案問答)を説こうぜ」
……というように、お経の意味がわからなくても大丈夫な方法が考え出されていきました。

さて、一遍の時宗はどうだったかというと、これは一遍の生涯と深く関わっています。
愛媛県松山市で生まれた一遍は10歳で母親を亡くしたことをきっかけに出家します。
そして、25歳のときに父親も亡くし、一度還俗(お坊さんをやめること)して故郷に帰るのですが、親族の相続争い等々を目の当たりにしてイヤになった彼は再び出家しました。
領地などが関わっていたそうなので、結構エゲツない状態だったのかもしれませんね。(そういえば松山舞台の「坊ちゃん」の登場人物もえげつない人が……)

その後は放浪しながら各地のお寺で修行を積みました。
このあたりから「一般の人々にも仏教を広め、安心してもらおう」という考えが芽生えていたのでしょう。

 

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最初は踊り念仏ではなかった

まず木の札に念仏を書いて、それを人々に配りはじめました。
受け取ってくれる人もいましたが、中には「自分は仏様を信じ切れていないから、受け取るのは失礼だ」と言って受け取らない人もいました。
この人の名前は伝わっていませんが、一遍と同じお坊さんだったそうです。

一遍は悩みます。
「既に仏様を信じている人が救われるのは当然だが、今信じていない人も救えなくては意味がないんじゃないか?どうしたらそういう人にも札を受け取ってもらえるだろう?」
そんな悩める一遍、ある日不思議な夢を見ます。

白髪の山伏が、彼に向かって何かを語りかけてくるのです。
あまりに何度も言うので、一遍は寝ている間に言われたことを覚えてしまいました。
「いったい何だったんだろう?」と思いながら、内容を書き出してみると……。
「お前は札を渡して、人々が仏様を信じるきっかけを作ればいい。後は仏様がその人を救うかどうかを決めるから」というサバサバしたものでした。
言われてみれば確かにその通り。
「何だ、簡単なことだったんじゃないか!」と頭を切り替えた一遍、再び札配りを始めました。

さて、ここまであの単語が出てきませんでしたね。
一遍といえば「踊り念仏」。
実はこれ、一遍が晩年に入りつつある頃に始めたものなのです。
そして、一遍のオリジナルではなく平安時代にいたお坊さん・空也(くうや)の行っていたものを再興させたのでした。
太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、踊りながら念仏や和讃(日本語で仏様や仏教を褒めたたえること)をするというスタイルは、多くの人々の目を引き広まっていきました。

このとき一遍は40歳。(この頃は40で晩年かぁ)
踊りながら念仏を唱えるなんてなかなか体力がいりそうですが、全国を旅していたのでできたんでしょうね。
現在のお坊さんも読経などで肺活量や腹筋が鍛えられているそうですので、旅暮らしだった一遍も体力や筋力はあったのかもしれません。

しかし、人間ですから死は免れられません。
50歳を迎えた一遍は、「死に場所」へ向かいました。
常々「播磨の印南野(いなみの)教信寺がいい」と考えていたからです。
ここは一遍の尊敬するもう一人の僧・教信(きょうしん)が開いたお寺。
こういうとちょっと語弊があるかもしれませんが、尊敬する人のゆかり地で生涯を終えたいなんて、ちょっとロマンチックですね。

 

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偉人の死に奇跡は起きない

その途中、別のお寺に招かれます。
このお寺がどこだったのかについては諸説あり、はっきりしていません。
一遍は少し迷いますが、「これも何かの縁」と思い、そのお寺に向かいました。
少し立ち寄ってから教信寺へ向かうつもりだったのかもしれません。

しかし、彼は結局、教信寺へ向かわず、8月10日に自分の持ち物を焼却処分してしまいます。
いよいよ死期を悟ったのでしょう。
この頃には一遍に賛同してくれる人も多くなり、弟子もたくさんいました。
周りの人たちは驚くと同時に悲しみ、「上人は立派な方だから、何か吉兆が現れるのではないか?」と期待もしたそうです。
ですが一遍は静かに笑って「私はそこまでの者ではないから、何も起きないよ」と諭したとか。

そして約2週間後の8月23日、息を引き取ります。
彼の言ったとおり吉兆も凶兆も何も起きず、静かな最期だったそうです。

小さいときからお母さんを亡くし、親族ともうまく行かず苦労続き。
それでも人々のためを思って仏教を広めることに邁進した一遍にとっては、やっと安らげた瞬間だったかもしれません。

ちなみにこの一遍上人、実は昨年映画化されていました。
キャーンのウド鈴木さんが映画初主演を務め、なかなかの好演だったようです。
興味のある方は一度ご覧になってみてはいかがでしょうか?

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【TOP画像】一遍上人絵詞/国立国会図書館蔵

 





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