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画・富永商太

豊臣家 その日、歴史が動いた 関ヶ原の戦い

関ヶ原番外編 負けた後の石田三成、6日間の逃亡劇とは?

更新日:

石田三成を狩らないと敵とみなされ、農民も必死

9月は関ヶ原の合戦強化月間とはいえ、そろそろ関が原ネタも食傷気味……という感が漂ってきましたので、本日でお終いにしましょう。

慶長五年(1600年)のあす9月21日、石田三成が自分の領地内で捕らえられました。

決戦のあった15日から6日間の逃亡劇というと現代では短く感じますが、当時の状況からすると一人でよくやったもんだという見方もできます。

三成は実質西軍の大将でしたから、その首を挙げなければ戦の始末がついたことになりません。東軍の将兵は文字通り血眼になって探したことでしょう。

加えて、この時代、戦が終われば農民も追っ手に加わります。
戦となれば田畑を避けるわけにもいきませんからめちゃくちゃになるのは当然ですし、戦果に酔った勝ち手側の軍が村を襲って略奪するのも当然とされていました。

その仕返しとして、農民が敗軍の将を襲うというのも当たり前のことでした。さらには、勝ち馬に乗ったことにしないと「敵」と見なされて攻撃されかねないので、農民だって落ち武者狩りに必死だったのです。
あの明智光秀も、直接的な死因は農民の落ち武者狩りに遭ったからです。

 

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ズタボロの身でそれでも佐和山城を目指す漢の意地

当然三成もそれはわかっていますので、死に物狂いで逃げます。大河ドラマ「天地人」でも小栗旬さん演じる三成はかなりボロボロになって逃げていましたね。

史実でも木こりの姿に身をやつし、関が原の戦中から酷くなっていた下痢と闘いつつという壮絶な状況だったそうです。

普段のようにきちんとした食事も取れませんし、生水も飲んでいたでしょう。
ストレスと飲食状態の悪さで、体調は一気に悪化したに違いありません。「畑で動けなくなっているところを付近の村人に助けられた」というエピソードもあるくらいですから。

それでも三成は逃げに逃げ続けます。
どんなルートをたどったのか、はっきりしたことはわかっていません。疲労困憊の本人も覚えていないかもしれませんし、以下の逸話も色々な伝承が混じっております。

ともかく、三成は再起を信じて逃げたのだから、居城で琵琶湖沿岸の佐和山城(滋賀県彦根市)を目指していたことは確かでしょう。

 

衣食住よりも「家康の首が欲しい」

彼はまず、伊吹山をこえます。9月とはいえ、古くはヤマトタケルが伊吹山に失敗したことが原因で死亡するほどの山です。
ただ、そこを越えれば佐和山城も近く。

ところが、佐和山城より北にある自分の生まれ故郷の長浜市木之本にあった法華寺三珠院(さんじゅいん)というお寺に逃げ込みます。
ここは三成が小さい頃勉強を教えてもらっていたお寺でしたので、信頼できると思ったのでしょう。

住職はもちろんかくまいますが、ボロボロの姿で現れた三成に住職は「まず何が欲しいですか」と尋ねました。おそらく住職は食べ物か、着るものか、というつもりで聞いたのでしょう。

しかし三成は「家康の首がほしい」と答えたそうです。

前々から大谷吉継はじめ多くの人に「お前じゃ勝てないからやめとけ」と言われ、その通りに大敗北した後の台詞とは思えません。
ここまでくると執念に恐れおののけばいいのか、バカにも程があるとけなせばいいのかもわからないほどです。

しかし、一息ついたところで、褒賞に目が眩んだ一部の村人により、三成の居場所が東軍側に漏れてしまいました。
他の説として、命がけで助けてくれた村人がいて、彼にとばっちりが行かないようにわざと敵に自分の居場所を教えさせた、というものもあります。

 

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助命嘆願する武将は誰もいなかったんすね……

どちらが真実かはわかりませんが、この報告を受けたのは旧知の仲だった秀吉の側近・田中吉政という武将でした。

この人は、佐和山城攻めにも参加して落城させたばかり。後ろめたく思っていたのかもしれません。三成が会ったことのある人間を捕縛に向かわせたり、「腹の調子が悪い」と聞いては腹痛に効くといわれていたニラ粥を用意してやったりと細かく世話を焼いています。

これは吉政の策略という説もありますが、三成は「お前に捕まるならまだマシだ」と言って、形見と称して刀をあげた、などの話も伝わっていますので、少なくとも三成から見た吉政は信頼の置ける人物だったのでしょう。

結局、捕縛されたのは伊吹山中でした。

三成はこの後、同年10月1日に京都の六条河原で処刑されてしまいます。敗軍の将には避けられないこととはいえ、誰か助命嘆願くらいはしてあげてもいいんじゃないかという気がするのですが、残念ながらそうした人物の記録は見つかっていません。

立花宗茂や毛利秀元のように「まだオレたちは戦えます!」と言ってくれた人はいましたが、(本来の)西軍総大将・毛利輝元がさっさと大阪城から出てしまったので、再戦は叶いませんでした。

もし三成が最初から佐和山城ではなく、大坂城を目指していて、無事入城できていたらまた歴史が変わっていたのかもしれませんね。島津のように敵中突破するなどの豪胆さを見せていたら……。そんなに豪胆だったら、そもそも最初から勝っているか。




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長月 七紀・記

 





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