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その日、歴史が動いた

謙信・信玄に負けなかった名君が遺した偉大すぎる功績が子孫を滅ぼす

更新日:

「小田原評定」という言葉があります。

いつまで経っても話が堂々巡りになって、会議=評定が進まないことをいいますが、これの語源を作ったのはもしかすると隠れた名将のあの人かもしれません。

元亀二年(1571年)のあす10月3日、後北条氏の三代目・北条氏康が亡くなりました。
この人、教科書にはたいして出てこないのにスゴイことをやっています。
27歳の若さで戦国三大奇襲の一つ・河越夜戦で勝利を収め、さらに甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信の二人に勝ったことがあるのです。
しかし、その勝ち方が本人の死後問題になっていきますが、それはしばらく後の話。

夜戦と籠城の名手。野戦は苦手?

その戦法とは篭城戦。
謙信も信玄も、それぞれ小田原城まで出向いてきたのですが、諸般の事情により攻め落とすことができなかったのです。

結局、おいらの一人勝ち

おかげで関東管領になれました(上杉謙信)

謙信率いる上杉軍が攻めてきたのは、永禄四年(1561年)。
10万近くの兵を率いて関東を邁進してきました。
謙信に家を譲る前の上杉家は、河越城(埼玉県川越市)の夜戦で多大な被害を出し、名門とは名ばかりの没落ぶりでした。関東管領の上杉なにがしが逃げ込んだのが謙信さん。当時は長尾景虎です。

名門・上杉家の当主を譲り受けた謙信は、新興勢力である後北条氏を倒しに来たのです。(お前が新興勢力だろBY氏康)
すでに上洛を済ませて将軍から関東管領のお墨付きをもらった謙信にとって、関東管領を脅かす後北条氏は見過ごせない存在。
永禄三年(1560年)、雪解けの時期を待って越後から意気揚々と進軍します。

さすが戦上手、関東に点在する後北条側の城を、いとも簡単に攻略していきます。
まずは越後から最も近い上野国(群馬県)を一掃し、ここで足場を固めました。
そして腰を落ち着けると、関東管領の名をもって他の大名へ「北条家を討つぞ!我に続け!」と号令を下すのです。
謙信の勢いを見た大名達は「アナタ様のおっしゃるとおりです!今こそ好機!!」とばかりに次々と参陣してきました。

そして翌年、あっという間に武蔵国(東京都・埼玉県)を攻め落とし、鎌倉までも手中に収めて小田原城へ迫ったのです。
夜戦は得意でも野戦には勝てないと判断した氏康、小田原城へこもり篭城を図りました。
謙信は慌てるそぶりも見せず、悠々と城を囲んで機を待ちます。
これがだいたい3月下旬頃の話ですから、雪が降るまでに帰るとしてもまだたっぷり余裕がありました。
おそらくそれまでに兵糧が尽き、打って出てくるか降伏するかの二者択一になると考えていたのでしょう。
毎年の越冬で待つことには慣れている謙信と上杉中枢、じっと城を睨んで退治します。

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外交もうまいだろう~

しかしここで予想外の事態が起きました。
武田氏が謙信の本拠地・越後との国境の川中島に海津城を完成させたという報が入ったのです。
川中島を取られては、いかに謙信でも越後を守りきることは難しくなります。
その上、関東一帯で起きた飢饉のため、城方だけでなく遠征軍側も兵糧に困るようになってしまいました。
長期の布陣と兵糧不足に対する不満で、少しずつ遠征軍の中にほころびが生じていることを感じ取った謙信は、思い切りよく帰還を決意します。
「義」を第一とする謙信にとって、まとまりの欠けた軍で攻城戦に勝てるとは思えなかったのでしょう。
名将は引き際も見事ですねえ。

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信玄だって餅にしてやる!

武田信玄

武田信玄さんも落城できず

去っていく上杉軍とその仲間達を見送り一安心した氏康ですが、永禄十一年(1568年)には武田信玄がやはり大軍を率いてやってきます。
当然謙信の攻め方と失敗を知っていましたから、信玄は違う方法で戦いました。
「腰抜け!」「俺たちが怖いのか臆病者!!」などなど挑発を繰り返し、怒って出てきたところを自慢の強兵で叩き潰そうというものです。

こう書くと「そんなモンでひっかかるんか?やる方もバカだなあ」と思われるかもしれませんが、戦において悪口はけっこう重要なのです。
別に当時の人が現代人より怒りっぽかったとかそういうわけではなく、特に武士において誇りは何よりも大切なものでした。
罵詈雑言を目の前で言われては「武士の名折れ」というやつです。
楠木正成の率いた河内勢なんかも、篭城する→悪口で挑発する→敵軍が登れもしない坂に群がる→熱湯や糞尿をかけてひるませる→矢を射掛けて撃退、なんて手法をよく使っていました。

が、後北条家はどちらかというと悪口にカッとなるよりも「ほっとけほっとけ。そのうち飽きるんだから」と考えていたようで、信玄の挑発は三回やって三回とも失敗に終わります。
信玄カッコ悪いぞ。

しかも包囲している間に、うっかり退路を塞がれかけます。
甲斐へ帰るにはどうしても山を越えなくてはいけませんから、信玄は「完全に塞がれると面倒だし、帰るか」とあっさり包囲を解きました。
包囲していたのはたったの数日間だったといいます。

調子にのって追撃したら信玄にやられたでござる

まるで大掛かりな社会科見学です。

しかし、武田軍は先に攻めてきた上杉家と愉快な仲間達軍よりもずっと少数でした。
ここで城にこもる氏康、一計を案じます。
「いくら信玄でも、挟み撃ちされたらひとたまりもないだろ。虎狩りじゃあ!」と腰を上げ、追撃の準備を始めたのです。
が、信玄ももちろん戦上手、そう簡単にはやられません。
三増峠(みませとうげ)というところで退路を塞いでいたつもりの北条方を打ち破り、挟み撃ちするつもりで出てきた氏康の息子・氏政を追い返したそうです。カッコいいぞ信玄。
それにしても、氏康は、夜戦はできても、野戦は……。

城を堅固にさえすれば!→20年後滅亡

絵・富永商太

一夜城最強~

こうして小田原城は戦国の龍虎両方を追い返した名城として知られるようになったわけですが、これが氏康の死後20年を待たず、豊臣秀吉によって落とされてしまいました。
最大の原因は「城にこもっていればそのうち帰るだろ」とのんびり会議ならぬ評定を踊らせていたからだ、といわれていますよね。
でも、「謙信も信玄も落とせなかった城」という当時最高レベルの評価がついた城を、天下人とはいえ元は農民に過ぎない秀吉が落とせるなんて誰も思わなかったでしょう。
しかも信玄が引き上げてからの間に小田原城は増築を続けていて、秀吉が攻めてきた頃にはさらに堅固な造りになっていました。
それなら「こんなに守りの固いウチの城が攻め落とされるわけがない」と思っても仕方のないことではあります。

「勝ちすぎると驕りが生じて後々滅びる元になる」と言い残したのは信玄ですが、皮肉なことに後北条家は撃退した相手の教え通りの結末を辿ることになってしまったのでした。
デキ過ぎるご先祖を持つのも考え物ですね。

長月 七紀・記

参考 

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http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/10/post-c290.html
http://www.m-network.com/sengoku/sen-epst.html

 





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