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その日、歴史が動いた

リア充じゃないのに松永久秀が爆発した日【その日、歴史が動いた】

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きのうは、真田十勇士とかに囲まれて(実際は架空キャラたち)リア充な真田幸村について書きましたが、きょうの主役は「非リア充」というか「非モテ」。

天罰というべきか因果というべきか、悪いことをすると後々しっぺ返しをくらうのはいつの時代の誰でも同じもの。
戦国時代にまさにそんな出来事がありました。

天正五年(1577年)の10月10日、織田信長を裏切った松永久秀が爆死しました。
松永久秀は教科書には出てこないものの、某BASARAや某野望シリーズ、はたまた漫画「へうげもの」の影響で一気に知名度が上がりましたね。
その死に様から官職の弾正忠(だんじょうちゅう)とかけて「爆弾正」として親しまれ……ているかどうかはともかく、「ああ、あの悪人ヅラね」と連想する人は少なくないのではないでしょうか。

この人、爆死もなんですがとにかくやったことのスケールがスゴイ。
下克上はもちろんのこと、あの第六天魔王信長をして「世の中にこいつほどの悪人はいない」とまで言わしめたほどの人物です。
理由は三つ。
・主家の三好家を乗っ取った
・十四代将軍足利義輝(よしてる)を殺した
・奈良の大仏殿に放火した
というものですが、このうち二つは信長も似たようなことやっt……何でもありません。
ノブナガンジョークだったんでしょうか。

この三件、それぞれ久秀が確実に関与していたかどうかの確証はないそうですが、それでも本人が否定しない上に弁解した人物もいないので、今でも「乱世の梟雄」「戦国三大梟雄」とされていますね。「きょうゆう」というのは悪のショッカーのボスみたいな意味です。

ちょい悪を使いこなせるか?信長さん

こうしたチョイ悪どころじゃない悪人の久秀でしたが、一度は信長の下で真面目に働いていたこともあります。
信長が永禄十一年(1568年)に足利義昭と大軍を率いて上洛した来たときは、「あ、こりゃ無理だ」とあっさり降伏して従いました。
しかも九十九髪茄子(つくもがみなす)という名茶器と人質を差し出すという丁寧ぶり。
義昭は義輝の弟だったので、「ちょっとちょっとちょっと兄貴の仇をそんな簡単に許せないんですけど!!」と信長に反対するのですが、信長は「どうしようもない悪人だから、ワシが使い潰しますんでw馬車馬の如く働かせてお兄さんの供養にしましょうよwww」なんて底意地の悪い言い方で丸め込みます。

そして形式上は義昭の部下の位置に久秀を置き、織田家へ協力させました。
使えるものは親でも……ならぬ、仇でも使えってことですかね。
合理主義の信長らしい考えです。

が、信長以上に功利主義の久秀、そう大人しくし続けることはありませんでした。
密かに武田信玄と手紙のやり取りをして、反逆の手筈を整えます。
この間に撤退戦で信長の命を救ったりもしているので、傍から見ると殺したいのか生かしたいのかサッパリわかりません。
「やるなら自分の手でやったほうがスッキリする」とかそういうことなんでしょうかわかりますん。

が、この計画は信玄が死んでしまったために頓挫してしまいました。
頼みの綱の武田家が来ないとあっては、一人で戦うか切腹かどちらかしかありません。
しかし久秀はまだ天に見放されてはいませんでした。
なんと「城を渡すのでご勘弁くだされ☆」と信長に降伏するのです。
しかも信長、これをあっさり受け入れて謀反を不問にしてしまいます。
後々信長を裏切った人の末路と比べると、あっさりしすぎていて不気味なほどです。
それだけ久秀の能力を買っていたとも言えますが。

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3度目の浮気ならぬ裏切り

ですが梟雄・久秀がそう大人しく(ry
数年後、久秀は参加していた本願寺攻めの軍から勝手に抜け出して、再び城に籠もり反逆の姿勢を明らかにしたのです。
この時は正真正銘本気だったようで、信長からの使者すら追い返しています。
離婚届へのサインを嫌がる妻かお前は。

しかしやはり多勢に無勢。
信長は圧倒的な数の暴力もとい兵力で、久秀の籠もる信貴山城を包囲しました。
とはいえ、信長は本気で攻めるつもりはなかったらしく、「名茶器・平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)を差し出せば許してやんよ!」と通達しています。
理由がわからない上にいきなり叛かれて、しかも引きこもったままですから久秀が何をしたいのかわからなかったのでしょう。
後世から見てもちんぷんかんぷんです。

一説には、三好家に仕えていた頃の敵だった筒井順慶を信長が重用したからだとも言われていますが、上記のように久秀が頑として応じなかったためこれまた真偽がはっきりしません。
説得に応じる気配すら見せない久秀に、信長も今度こそ堪忍袋の緒が切れました。
人質として預かっていた久秀の孫二人を京都市街で引き回しの上、六条河原で斬首という酷い刑に処しました。
そのための人質なのですから当然といえば当然なのですが、この孫が12歳と13歳だったそうですから痛ましいものです。

信貴山城は建築名人でもあった久秀が手がけた城で、信長自らの出馬でもなかなか落ちませんでした。
しかし数で劣る久秀側にも決め手がないのは同じ。
援軍がなくてはどうにもできないと考えた久秀は、こっそり通じていた本願寺から鉄砲衆を借り受けます。
さらに本願寺からは「もう少しでワシも援軍にいけるし、毛利殿もお主に味方すると言っているぞよ」という返事が来ました。
これを受けた久秀は「よーしそれならワシ頑張っちゃうぞ☆」と援軍を待ちます。

宝物とともに爆死!!!!

駄菓子菓子!「援軍が来る」というのは真っ赤なウソでした。
援軍要請の使者に立った森好久という人物が、実は筒井家からのスパイだったのです。
憎き久秀を仕留めるため、松永家に潜り込み機会を窺っていたのでした。
当然、好久の連れてきた鉄砲衆も彼の味方です。

そして10月10日の朝、鉄砲衆が城の内側から火を放つと、松永軍は大混乱。
最後の最後まで戦う者もいれば自害する者もおり、当然逃亡を計る者もいました。
戦どころではなくなった兵を見て、「最早これまで」と観念した久秀、信長の所望した平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて爆死した……といわれています。

名物を敵の手に渡すのはどうしても嫌だったのでしょうか。
ただ単に派手なことをしたかっただけなんでしょうか?
どちらかというと後者のような気もします。

何故なら、彼はやたらと「史上初めて」のことをやっているからです。
当時伝わったばかりのキリスト教を引っ張り出して「クリスマスだから戦しません」と休戦したり、天守閣を初めて本格的に作った人物でもあるのです。

ついでに10月10日は、久秀が大仏殿に火を放った火でもありました。
10年前の永禄十年(1567年)のことです。
以前このコーナーで「やたらと出来事の重なる年がある」というような話をしたのですが、図らずもまたあの年の出来事です。
ホントにこの年、「何がどうしてそうなった?」ってくらい濃いですね。

10年後の10月10日でキリもよく、しかも「史上初めての爆死」という死に方……うーん、なんだかわざとらしいというか「最後に一花咲かせてやんよ!」的なものを感じます。
巷では「仏罰だ」と言われたそうですが、久秀本人は「やってやったぜ☆」なんて満足してたかもしれないですね。




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