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長連龍/Wikipediaより引用

武田・上杉家 その日、歴史が動いた 諸家

長連龍の史上最恐「倍返し」 能登の武将が行った徹底的な復讐とは?

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今回は、大変血生臭いお話です。
とにかく主役の執念がスゴイ。なぜこれが三大敵討ちに入っていないのかと聞きたくなるような話です。

天正六年(1578年)の10月22日、長連龍(ちょうつらたつ)という能登(現・石川県)の武将が信長に助けを求めるため、包囲されていた城を脱出しました。

ここだけなら「ふーん」って感じですが、この後のツラタツの行動が、名前の漢字どおりすげえ。
あの信長に仲裁されても引かなかったという執着ぶりなのです。
仇取るために自分が死ぬ気か!

どういうことか、前後事情からみてみましょう。

※日本三大敵討ちとは?
曾我兄弟の仇討ち(源範頼が頼朝に誤解されるきっかけになった事件)
鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ちとも。アッー!な色恋沙汰がきっかけの身も蓋もない事件)
元禄赤穂事件(「忠臣蔵」の元になった事件)

 

上杉謙信に攻められついに陥落七尾城

事の発端は信長と上杉謙信の対立でした。

信長が石山本願寺を攻めた際、1万人を超える宗徒を処刑したため、敬虔な仏教徒でもある謙信が「毘沙門天に代わっておしおきよ!」とそれまでの方針に変えたのです。
単なる義侠心だけではなく、信長が謙信のご近所・越前(福井県)を攻める気配を見せたという理由もあります。

あの信長(2回目)が、ぺこぺこ頭を下げてやっと結んだ同盟を破棄し、元は仲の悪かった石山本願寺のトップ・顕如と手を組みました。

謙信のいる越後から信長がいる京都に行くには、越前はもちろん加賀・能登(石川県)や越中(富山県)を通る必要があります。
連龍のいた七尾城は能登にありました。

城の主は主君・畠山春王丸でしたがまだ幼く、実質的に仕切っていたのは連龍の父・続連(つぐつら)。

謙信に攻撃された七尾城は一旦孤立するものの、同時期に関東で北条氏が上野(現・群馬県)に侵攻する動きを見せたこともあり、上杉軍を追い返すことに成功しました。

が、あっさり北条氏を破った謙信は、翌年再び七尾城へやってきます。
続連はやはり籠城し、上杉軍が諦めるのを待とうとしますが、流石に軍神謙信相手に同じ手は二度も通用しませんでした。

謙信は七尾城内の畠山氏の家臣である遊佐続光(つぐみつ)や温井景隆(ぬくいかげたか)らを調略し、内側から城を攻略する手を取ります。
これに応じた二人は、続連を始めとした長一族をことごとく殺害し、上杉軍に降伏したのです。

元々この戦の前から続連は親織田派、温井達は親上杉派で対立していた上、続連が急に権力を持ったため反感を持っていたということもあります。

こうして七尾城は上杉軍の手に落ちました。

 

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たまたま城外に出ていて生き残る

連龍は、長一族の中でただ一人生き残りました。
裏切りの前、七尾城内では疫病が流行り、信長へ救援を要請するため連龍を使者として密かに脱出させていたからです。
そのおかげで助かったのですが、これで連龍はその後の数年間、復讐の鬼と化します。冗談抜きでこれ以外の表現が見当たらない……。

とはいえ、まずは手勢がなくては戦になりません。
そこで連龍はかつて家臣だった者や浪人を集めて即席部隊を作り、同じく畠山氏に仕えていた神保氏張(うじはる)と共闘しました。
軍才はなかなかのものだったようで、一度は城を取り戻すほど。
しかし謙信率いる上杉軍に連戦連勝とはいかず、再び信長を頼りました。

幸運にも、同じ頃謙信が突如亡くなり、北陸近辺の情勢は一気に変わります。
それは裏切った温井達が一番よくわかっていました。
信長の下へ「すいませんでしたお許しください降伏しますので!」と申し出ますが、身を寄せていた連龍は当然大反対。
「親兄弟の仇をそう簡単に許してたまるか!!」ってそりゃそうですよね。
どっかの腰抜けラストショーグンと違って、圧倒的な寡勢でも軍神(についた裏切り者)と渡り合おうとした人ですから。
あまりに反対し続けるので信長のほうがキレてしまい、「領地やるから黙ってろ!」とまで言われてようやく一度矛を収めました。
ゴネ続けてたら処分されてたかもしれませんね。

 

皆ごろし×2=皆ごろし……「倍返しできなーい!」

が、連龍はここで完全に諦めたわけではありませんでした。
城を立ち退いた遊佐氏一族を見つけ出して皆ごろしをやり返します。
これだけでも収まらず、本能寺の変の隙をついて再び攻めてきた温井も返り討ちにしました。
後者については信長に処刑されたとも、隠れていたところを連龍に見つかって殺されたともいわれていますが、どちらにしろ連龍が復讐を諦めず、成し遂げたことは確かでしょう。
その間には上杉側に寝返った長景連(かげつら)という一族の者も討っています。ツラばかりヅラ。
連龍さんのリベンジ基準パネェ。

この「目的のためには手段を選ばない」という点が武将としては評価されたようで、信長が斃れた後は能登の大名となった前田利家の家臣となって信頼を得て、その後、百万石の加賀藩の重臣として子孫は末永くお幸せになったとさ。

ちなみに、連龍さんは70歳で大坂の陣に参加するなど、長命かつ頑健でもありました。
「人を恨むは墓二つ」(相手も死ぬが、自分も呪いが戻ってきて死んじゃうよという警告)なんて言われていますが、若い頃からエネルギッシュな人は健康に長生きできるってことでしょうかね、うん……。

長月七紀・記




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参考:長連龍/Wikipedia 今日は何の日?徒然日記

 



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