戦国時代には、今の常識が通用しないことが多々あります。
織田信長が、義弟・浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼ったというのも、当時は死者に対する敬意を示すものだったという説もあります。
この話自体がフィクションの可能性も大ですが。
今回は、別の常識ハズレな方に注目。
天正七年(1579年)10月30日、宇喜多直家が織田家に降伏しました。
この直家、松永久秀や斎藤道三と並び称される「梟雄」と呼ばれる人物です。(息子は三大イケメン宇喜多秀家さんですが)
妻の実家や娘が嫁いだ相手まで○○の対象にしている直家の場合、二人と比べてもやってることがエゲツないですが……。
しかし、直家にもそうする理由はありました。
【TOP画像】霜月けい
力の弱い家は謀略に頼るほかない
宇喜多家は直家の祖父の代に没落してしまい、後々身分を回復するのですが、その後も有力大名の板ばさみのような状態で、なかなかお家安泰とはいかなかったのです。
力の弱い家が生き残っていくためには、謀略に頼るほかありませんでした。
そこでよく用いたのが、暗殺。
「直家+お茶=暗殺」ってなもんで、茶会に招かれたらこれはもうターゲッティングされていると思ってもいいほどです。
あまりにも頻繁にこの手を用いたため、実の弟ですら「兄上の呼び出し?鎖帷子を用意せよ!(gkbr)」なんて状態だったとか。
直接、暗殺しただけでなく、娘の嫁ぎ先城を攻めて娘もろとも自害させるなんてのも含めれば、数は倍近くなります。
よくこれで本人が刺客を放たれなかったものです。
それとも返り討ちにしたんでしょうか。
しかし見方を変えれば、「急に親しいフリをするようになった相手」は信用しなかったという面もあります。
なぜなら、暗殺をさせた古参の家臣を使い捨ててはいないからです。
ただ単に暗殺が好きな卑怯者であれば、情報が漏れるのを恐れて口封じまでしたでしょう。
ですが、城が餓えるようなことがあれば直家自ら食を断ったり工作に励んだりと、苦しみを分かち合おうとする人でもあったのです。
そのためか、直家は恐れられてはいても家臣に背かれることはなかったようです。

宇喜多直家/wikipediaより引用
毛利家と織田家の狭間に立たされ
こうして直家は暗殺や謀略を繰り返し、主家・浦上家を追放して戦国大名となりましたが、たちまち毛利家と織田家の狭間に立たされることになります。
なにせ彼の本拠は備前(現・岡山県東南部)ですから、地理的に仕方のないことです。
この頃は豊臣秀吉が中国方面の攻略担当となり、対する毛利家は元就がなくなっていたものの、当主輝元の叔父である吉川元春・小早川隆景の二人ががっちり固めていました。
これでは暗殺など通用しません。
実は一度毛利家の二人に対し、「戦帰りにウチへ寄ってくださいよ(アナタ方の首を手土産にしたいんで)」と誘いかけたのですが、あっさりバレてしまい失敗に終わっています。
そこでさすがの直家も諦め、潔く織田信長に投降する道を選びました。
それまで毛利寄りだった直家が降伏の意向を示したことで、秀吉はこれを手柄にしようと信長への仲介を引き受けます。
戦をせずに傘下が増えれば、それに越したことはないですからね。
かくして織田家についた直家は、秀吉に感謝したのか対毛利家攻略に力を注ぎます。
そのおかげもあってか、長男・秀家は後々秀吉から寵愛され養子にもなり、若いのに五大老にまでなりました。
暗殺上手と忠誠心、似ても似つかない単語のような気がしますが、人は見かけだけでなくやってることにもよらないということでしょうか。
直家の木像の写真見てると背筋が寒くなるなんてそんな気のせい気のせい。
長月 七紀・記
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