鴫野・今福の戦い

家康にプレッシャーをかけられる上杉景勝(左)と佐竹義宣/wikipediaより引用

合戦・軍事

上杉軍と佐竹軍は必死の戦闘~大坂冬の陣「鴫野・今福の戦い」とは?

大坂冬の陣でイメージするものといえば真田丸ですよね。

難攻不落だとされる大坂城で、唯一弱点だと見られた南側の空き地に、真田信繁(真田幸村)が敷いた軍事施設です。

従来は城にくっついた巨大な馬出しのような建造物と思われていましたが、奈良大学・千田嘉博教授の研究成果により、離れ小島のような小城だった可能性が高いのではないか?とされ、大河ドラマ『真田丸』でもそのように描かれておりました。

しかし、冬の陣での戦闘は、当然ながら真田丸だけではなく、他のエリアでも激しい野戦が行われていました。

慶長十九年(1614年)11月26日、大坂冬の陣の局所戦である【鴫野・今福の戦い】がありました。

「しぎの・いまふくのたたかい」と読みます。

※以下は真田信繁の生涯まとめ記事となります

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大坂城の東側を守っていた鴫野砦と今福砦

鴫野と今福は、両方とも大坂城付近にあった村の名前で、合戦前に豊臣軍が砦として整備。

大坂城から見て、大和川という川を挟んだ真向かいにありました。

地図で確認してみましょう。

画面の真ん中左に現・大阪城が見えますでしょうか。

そしてその右に黄色い拠点が2つ。

左側の黄色い拠点が鴫野砦で、右が今福砦(今福鶴見駅)です。

城を攻めるに当たってこの二ヶ所を足がかりとするため、家康は上杉景勝と佐竹義宣に攻略を命じました。

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この二拠点を奪わなければ大坂城攻めも本格化できないだけに、激しい戦闘が予想されたでしょう。

上杉と佐竹に命じたのには理由がありました。

 


歴戦の勇者・又兵衛や重成が出陣!

上杉家は、関ヶ原の戦いでハッキリと徳川の東軍と敵対しておりました。

一方、関ヶ原当時、常陸の大名だった佐竹家は、東軍と直接ぶつかり合ってはいないものの、どっちつかずの日和見をしていた……という引け目があります。

家康的には「ちゃんと働かなかったら、どうなるかわかってんだろな」というわけです。

同時に、上杉・佐竹にしてもここで戦果戦功を上げよう!という士気は盛んだったはず。

26日の早朝、兵5,000の上杉家は鴫野へ、1,500の佐竹家は今福へそれぞれ向かいました。

おそらく戦闘が始まったのもほぼ同じ頃だったでしょう。

まず今福のほうは、大野治長麾下の武将・矢野正倫(やのまさとも)と飯田家貞が守備側に布陣。

元々いた兵が300と少なかったことと、豊臣方が退却する際に門を閉じなかったこともあり、当初は佐竹軍の有利に進み、一時砦を占拠しました。

そこで豊臣方の猛将・木村重成が大坂城から反撃を開始します。

さらに大坂城の天主から戦況を見ていた豊臣秀頼が今福を救援するよう命じました。

命を受けたのは後藤又兵衛基次です。

かつて黒田官兵衛(如水)に仕えた歴戦の武士で、関ヶ原の戦いの後、官兵衛の子・黒田長政と大ゲンカして出奔して浪人になり、豊臣方についておりました。

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この勇将たちの率いる援軍3,000で勢いづいた豊臣方は盛り返し、佐竹軍は後退せざるをえなくなります。

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