日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

その日、歴史が動いた

西遊記の三蔵法師玄奘さま無事に帰国 ただし猿や河童はいなかった模様

更新日:

 

突然ですが、アンサイクロペディアというサイトをご存知でしょうか。
名前から予想がつく通り、あのウィキペディアのパロディサイトです。ついでに内容のほうもだいぶパロディ化されています。
多分8割くらいの割合で「ブラックジョークにも程があんだろ!」なサイトなのですが、中には史実そのままに書かれている人もいたりして、なかなか便利なこともあります。
今日の主役はその悪ふざけバンザイサイトでも、珍しくかなり好意的に書かれている聖職者の方です。

三蔵法師玄奘(Wikipediaより)

えっ?女じゃなかったの?男の娘でもないの?

645年(中国の貞観十八年)の12月5日、「西遊記」の主人公としても知られている玄奘三蔵が唐へ帰国しました。
もちろん現実にはお供の空飛ぶ雲に乗ったサルも河童も豚もおらず、金髪でもなければリボルバーをぶっ放したりもしていません。
ついでに、日本のドラマや映画では画面の美しさ優先で女性にされてしまっていますが、れっきとした男性です。取ってもいません。
むしろある意味漢(おとこ)の中の漢(おとこ)ともいうべき人です。

なぜそんなに持ち上げるのかといいますと、そもそも彼がインドへ旅立った理由は、王様や皇帝・お寺のお偉いさんからの命令ではありませんでした。
なんと、移動手段なんて徒歩か馬くらいしかないこの時代に「正しい本から仏教の研究したいから、ちょっくらインド行ってきます」と自ら出立を決めているのです。
当時中国では隋から唐へ王朝が代わったばかりで、まだ国内も落ち着いていません。
しかも「危ないから許可できないよ」という役人の厚意(命令?)を無視して「ならこっそり出て行けばいいよね、バレないバレない」と密出国を成功させてしまいました。
これが629年(中国の貞観三年)のときのこと。
現代のチベット僧の方々などもそうですが、仏様に仕える道を選んだ人の肝の据わりようがすげえ。

唐からインドまでは途中、さまざまな大自然の試練が待ち受けていました。
現在の新彊ウイグル地区にあるタクラマカン砂漠、中国・キルギス・カザフスタンの国境に位置する天山山脈など、高低差も寒暖差も激しい地形が続きます。
今も別の意味で危険地帯ですが、当時も盗賊が跋扈していて安全とはいい難いところだったようです。
途中商人の一行に混じったり、仏教を篤く信仰していた王様の支援を受けられたことが良かったのでしょう。

スポンサーリンク

ガンダーラ、ガンダーラ、全然愛の国じゃなく勉強の国

玄奘がインドから中国に持ってきた教典がもとの法相宗の薬師寺公式サイトより引用

 

三年ほどかけてインドにたどり着いた玄奘は、休むこともせず猛勉強を開始します。
座学だけでなく、各地の仏教遺跡を渡り歩いて見識を深めました。
正しい教えを知るため、彼は旅の期間の数倍をかけて仏典の研究にいそしみます。
そして唐へ帰ってきたのが645年、日本では乙巳(いっし)の変があって年号が大化と定められた年のことでした。

十年以上経っているとはいえ密出国していたのですから、いくらお坊さんでもお咎めを受けそうだと思いますよね。
しかし当時の皇帝・太宗は「インドまで行って帰って来れたんだから、よほど仏様のご加護があるに違いない!密出国不問!!ついでに迎えも出しちゃう!」と実に太っ腹な扱いをしてくれました。
もちろん完全にタダというわけではなく、「西の国のことをレポートにまとめて欲しいな(チラッチラッ)そしたら研究も進めておk」という交換条件つきでしたが、勉強熱心な玄奘はもちろんこれを引き受けます。
こうしてできたお経が「大般若経」、レポートもとい報告書が「大唐西域記」です。
よくおばあちゃんちの仏壇に掲げてあったりする「般若心経」は大般若経との類似点もありますが、直接の関係はないそうです。
大般若経の偽典(お経の要約版のこと。×ニセモノ ○レジュメ)が般若心経では?ともいわれています。

スポンサーリンク

1000万字を訳して大往生。エキサイト翻訳を見せたい

持ち帰った経典の数は全部で657部と言われており、さすがの玄奘も全てを自分で訳すことはできませんでした。
しかし、それでも帰国から亡くなるまでの約20年で、1000万字を超える分を訳しています。
しかも単純に直訳したのではなく、より中国の人々にわかりやすいよう言葉を選んで書いていたそうです。
いくら有難い教えでも、意味がわからなかったら広まりようがないですものね。
多分皇帝へのレポート提出がなければもっと進んでいたのでしょうが、レポートはレポートで当時の国々を知る貴重な資料になっていますので、彼が多方面でイイ仕事をしたことには間違いありません。

玄奘の生誕年には諸説ありますが、帰国時点で40代後半から50歳過ぎであったことは確実です。
当時の寿命からしても、おそらく一人で全てを訳せるとは思っていなかったでしょう。
そして持ち帰った657部の法典のうち、大般若経にあたる部分を訳し終わった100日後、玄奘は静かにその生涯を終えました。
聖人伝説にありがちなアレコレの奇跡は伝わっていませんので、穏やかな最期だったと思われます。

が、約1500年後の現代中国人にははるか遠い存在なのか、なんと遺骨を納めたお寺が現在存亡の危機に瀕しているそうです。
くわしくはこちら。

「玄奘三蔵」遺骨を保存する寺が解体危機に

お寺を解体するのは時代の流れとして仕方ないのかもしれませんが、せめて遺骨は別の場所に納めたほうがいいんじゃ……。
長月七紀・記

スポンサーリンク

参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/玄奘三蔵

 

 





わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 史実の真田幸村とは?


3位 長篠の戦い 注目すべきは…


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-その日、歴史が動いた
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.