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その日、歴史が動いた

バナメイエビ帝国と名乗れ!神聖ローマ帝国が神聖でもローマでもない件について【その日、歴史が動いた】

更新日:

突然ですが問題です。

「神聖でもなければローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」とボロクソに言われた国は何という名前だったでしょうか。
……え?問題になってない?いや、これだけ言われたら逆にわからない気がしません?
この文言を書いたのは、諸国の王と文通しまくっていた啓蒙家のヴォルテール先生です。どっちかというとテストに出るのはこの人ですね。徹頭徹尾全否定とか悪口のセンスすごすぎやろ。
また別の学者さんには「妖怪に似たもの」とまで言われています。国家丸ごと四面楚歌なんて大陸の国はスケールが違いますねえ。

バッハ?ヴォールテーヌ先生です(Wikipediaより)

バッハ?ヴォールテーヌ先生です(Wikipediaより)

今日はその同年代の人々からあらゆる面でフルボッコになった国のお話です。
962年2月2日、オットー1世が戴冠し、神聖ローマ帝国が始まりました。

ミナミアフリカオットセイ@東武動物公園 - 無料写真検索fotoq
photo by tomosuke214 おっとせー

オットー1世(Wikipediaより)

オットー1世(Wikipediaより)

日本では藤原道長が生まれる少し前あたりになります。
多分大多数の人がこの国を覚えていないか、「いつの間にか出てきて、いつの間にかドイツになってた国」くらいしか覚えていないのではないでしょうか。
ワタクシめもピー年前の高校の教科書をひっくり返してみたんですが、主に取り上げられてるのが三回だけというまさかの扱いでした。しかも一回「ドイツ(神聖ローマ帝国)」って書かれてます。間違ってはいないにしろ酷すぎる。
※昔、「ドイツ」は地方や民族の名前であって、国の名前ではありませんでした。なので100%間違いとは言い切れないのです。

 もう「ドイツの素」ってことでいいや

極めて適t……ヴォルテール風に神聖ローマ帝国を評するとすれば、「今のドイツ連邦を中心とした地域にあったドイツの前身みたいな国だけど微妙にドイツっぽくない」国とでもいえましょうか。
余計わかりづらくなったような気もしますが、おそらく以下の経緯をお読みいただければ合点がいくのではないかと。

神聖ローマ帝国の変遷(Wikipediaより)

神聖ローマ帝国の範囲(Wikipediaより)

昔々、ヨーロッパにローマ帝国というデカイにも程がある国ができました。
しかしあるとき、アホな兄弟がこれを東西に分割して治めることになりました。
弟が継いだ西ローマ帝国は、優秀な人物が出てこなかったためにあっという間に滅びてしまいます。
ぽっかり空いた土地に入ってきたのは、ゲルマン民族の一部族であるフランク人でした。
彼らは現在のフランス北部にそのまんまな名前の「フランク王国」という国を打ち立てると、西ローマ帝国がいなくなった南側の土地へ進出していきました。

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「フランスの素」もローマじゃないのにローマってことに

そして、西暦800年にカールという人物がいろいろあってローマ教皇に認められ、「お前は西ローマ帝国の後継者じゃ」というお墨付きをもらいます。
「フランク王国にいる西ローマ帝国の後継者」というわけのわからん状態ですが、彼はこの功績をもって”大帝”と称されるようになりました。

時代が下り、フランク王国内でも争いが起こります。
またしても西と東に分かれた国は、その後(ローマ帝国と同じく)再び一つになることはなく、別の国家として歩み始めました。
この西側がフランスの元、東側が神聖ローマ帝国及びドイツの元になりました。
ホントは真ん中もあったんですけど、すぐ東西どっちかに吸収されちゃったのでもう二つでいいです。ちなみにフランスとドイツが戦争するときはだいたいこの真ん中地域(アルザス・ロレーヌ)の取り合いになります。

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カールおじさんに憧れるオットセイ わけわからん!

こうしてできた東側の国は、当初はフランク王国の血筋の人が王様になっていました。
しかしその血が途絶えると、地元のドイツ人が王様になります。
この二代目がオットー1世です。
彼はカール大帝に憧れていたので、同じ「ローマ帝国の後継者」=皇帝の位を教皇におねだりして貰い受けました。
教皇は教皇で、その頃ローマに来ていた代官に困らされていたので「あいつら倒してくれたからいいよ」とあっさり皇帝の冠をあげてしまいます。
日本の世界史でこのときをもって神聖ローマ帝国の始まりとしているのはこのためです。名実共に皇帝が出てきたんだから帝国でいいじゃん、というわけですね。

のほほん族 カールおじさん 合格祈願ウカールキーチェーン付き

しかしオットー1世は冠をもらった後、帝国へ帰ることはありませんでした。
ローマの暖かい気候が気に入ったのか、それとも「皇帝になったからにはローマにいないといけない」という妙な責任感があったのでしょうか。
ですが仕事はきちんとしていたので、彼の存命中はまあまあうまくいきます。

問題なのは、このイタリア最優先政策を後の皇帝も続けた事です。
時には戦争をしたり、ヴァチカンへ介入して無理やりドイツ人を教皇にしたりとやりたい放題でした。
……こう書くと、対象の性別と立場が違うだけで、やってることが藤原氏とあんまり変わらないような気がしますね。時代的にも大体同じですし。

しかしヴァチカンもいつまでも黙ってはいません。
グレゴリウス7世というイタリア人の勇気ある教皇が「もうお前らの干渉はうんざりだ!これ以上口出すなら破門にすんぞ!!」という印籠を当時の皇帝・ハインリヒ4世につきつけました。
やってることがテオドシウスの時代(約600年前)と変わってないってどういうことなの。

カノッサの屈辱きたーーーー!

破門というのは宗教的な勘当のようなもので、当然そんな状態では皇帝の座にい続ける事はできません。
ですからハインリヒ4世はイタリアのカノッサという場所まで出向いて許しを請います。
雪の降る中、城門前で裸足のまま3日間断食したそうですから、これほどの屈辱はなかったでしょう。
教科書ではこの件を「カノッサの屈辱」として太字になってますね。ピー年前のですけど。

テレビのカノッサの屈辱には燃えましたな、ピー年前ですが

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代々イタリアのほうばっかり見ていた上にこの屈辱をくらってしまったことで、神聖ローマ帝国皇帝は地元の貴族達からほぼ見捨てられてしまいます。
といってもたちまち大戦争とはいかず、少しずつデカい顔をし始める程度でしたが、その流れはもはや変わりようがありませんでした。
さらにフリードリヒ2世という皇帝(1220年即位)がイタリアを重視するあまり、貨幣や裁判に関する権限を貴族に与えてしまいます。どうしてここまで放っておいたんだ。
これでますます調子付いた貴族達は、とうとう「そんじゃウチが今から皇帝サマになりまーすwwww」と名乗りを上げ始め、正式な皇帝がいないというまさかの事態に陥りました。教科書的にはこれを”大空位時代”と呼びます。

その後、1273年に現在のオーストリアにあたる地域にいたハプスブルク家が皇帝になることで落ち着きました。
しかしこんなアホな時代に何回もなったらたまらないので、ハプスブルク家は「もうウチしか皇帝になれないから!」という制度を作ります。
こうしてハプスブルク家は神聖ローマ皇帝家となり、一度は争いが収束します。

ルターの改革とかあったなぁ

ですが、これだけでは終わりませんでした。
16世紀にルターが始めたプロテスタントが、神聖ローマ帝国の貴族達にも広がっていったのです。
しかしハプスブルク家は根っからのカトリックで、到底プロテスタントを受け入れる事はできませんでした。
このため、神聖ローマ帝国内ですらプロテスタント派とカトリック派に分かれ、さらには周りの国も巻き込んで三十年にも渡る小競り合いをおっぱじめます。
そのうちハプスブルク家は「この機会にヨーロッパ全部ウチのシマにしたるわ」と考え始め、当然ながら他の国は「やられてたまるか!」とあれこれ策をめぐらせます。
結果としてハプスブルク家=神聖ローマ帝国は弱体化し、代わりにフランスが大陸一の覇権国になるという笑えないオチがつきました。
教科書ではこの一連の戦争を”三十年戦争”と呼びます。

三十年戦争 ヴェストファーレン条約 三十年ぶりに聞いたわい

このとき主な戦場になったのはほとんど神聖ローマ帝国の中もしくは周辺でした。
地方の小さな領主達、そして何より一般庶民にとってはたまったものではありません。
その上トップのハプスブルク家まで勢力を弱めてしまったとなると、もう神聖ローマ帝国が復活する要素はどこにもありませんでした。
そして三十年戦争の講和条約として結ばれた”ヴェストファーレン条約”が神聖ローマ帝国にとどめを刺します。
この条約で、帝国内の貴族達が国家として独立する事が認められたからです。
それまでもほとんど独立国家の集合体のようなものでしたが、それが明文化かつ他国から認められたことで、帝国以外の国と独自に条約や同盟を組む事ができるようになりました。
これでは、もう神聖ローマ帝国が存在している意味がないですよね。
その後も名前だけは1806年まで残りましたが、ナポレオンの台頭によりハプスブルク家が「ウチもう皇帝やーめた」と帝位から下りたため、名実共に神聖ローマ帝国は滅亡したのです。
道長から江戸時代までっていうとスゴい話に思えますが、中身はこんな感じだったのであまり一つの国としての意識はなかったようです。

現在ドイツ人というと「勤勉なカタブツ」というイメージが強いですが、神聖ローマ帝国の歴史を見ていると、とても同じ民族とは思えないですよね。
ではどうしてそういうイメージがついたのかというと、この後出てくる別の国(でも中身はドイツ人)が大きな役割を果たしたからです。
その国のお話はまた日を改めて……できたらいいですね。

長月七紀・記

参考文献

参考

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http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu21.html

 





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