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南蛮人が連れてきた黒人奴隷(弥助関連)/wikipediaより引用

織田家 その日、歴史が動いた

日本史上初の黒人武士・弥助とは? 弥助を人種差別をしなかった織田信長の深イイ話

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一口に日本人といっても、さまざまな顔立ちの人がいます。
よくソース顔とかしょうゆ顔といわれますが、最近はより細分化してマヨネーズ顔とか味噌顔という分類もあるとか。

このバリエーションの多さは、大昔日本列島へ人間が移り住んだときやその後の渡来時、多種多様な民族の混血が起こったからだという説があります。
ごく稀に純日本人でもグレーや青みがかった目の方がいますが、多分遠いご先祖様がそういう色彩を持っていたんでしょうね。
現在に至るまで人種差別が少ないのも、宗教的なことに加えてこのあたりが理由なのかもしれません。
それは戦国時代のあの人も同じでした。

天正九年(1581年)の2月23日、黒人の弥助という人物が織田信長の家臣になりました(新暦3月27日)。

彼は現在のアフリカ・モザンビーク共和国の出身と言われています。

イラスト:富永商太

 

「墨を塗ってるんじゃないだろうな?洗い流してみろ」

当時この国はポルトガルの植民地になっており、多くの人が奴隷として世界中へ送られてしまっていました。弥助もその一人で、当初はインドに行かされていたのをヴァリニャーノという宣教師に連れられて来日したそうです。
当時は黒人を含めた有色人種の人権が認められていませんでしたから、ヴァリニャーノは弥助を見世物もしくは土産物の一つとして信長のところへ”持参”しました。

さすがの信長も、初めて見る黒い肌の人間にはビックリ。
「墨を塗ってるんじゃないだろうな?洗い流してみろ」と命じて、目の前で弥助の肌を洗わせたそうです。が、当然のことながら白くなるわけはありません。
本当に黒い肌の人間なのだとわかった信長は、その珍しさを気に入り「こいつくれ!」とヴァリニャーノに交渉しました。

そして無事彼を譲り受けた信長は、「弥助」という日本人の名前を与えて側に置いたのです。
元の名前が現地に多い「ヤスフェ」だったためこれを聞き間違えたという説もあります。

 

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前田利家と並ばせたら大迫力の身長182cm

そこまでして信長が欲しがった弥助とは、どんな人物だったのでしょうか。

黒人さんですから、肌が黒いのは上述の通り。背も高く、182cmもあったそうです。ほぼ同じ身長の前田利家と並んだらさぞ壮観だったでしょうね。そういう記録は残っていませんが、信長のことですから多分やってるでしょう。
信長も170cmくらいとされていて、当時の平均としてはかなり大きいほうですし、三人並んだら普通の人には壁にしか見えなかったんじゃないでしょうか。怖っ!

加えて弥助は「十人力」と記録されるほどの力持ちでした。
元々大の相撲好きな信長が、これを見逃すはずはありません。
ただ単に大会を開くだけでなく、身分問わず参加を認め、上位者には褒美を与えて召抱えるということをしょっちゅうやっていたくらいですから。

つまり、「腕力の強い者ならどんな出自でも構わん!」という主義だったということになりますよね。信長の感覚的には、出自の中に肌の色も含まれていたのでしょう。
こうした条件を兼ね備えた弥助は、信長からすればかなりの掘り出し物に見えたでしょうね。

ちなみに他の日本人はどうだったかというと、弥助が京都の南蛮寺(キリスト教の教会)にいた頃「あそこに肌が真っ黒なヤツがいるってよ!見に行こうぜ!!」と野次馬が群がり、怪我人が出るほどの騒ぎになったそうです。ご先祖何してんですか。

弥助が殴られたとか教会が壊されたのではなく、日本人が押し合い圧し合いして怪我をしたというのが興味深いですね。

 

奴隷から解放されて「殿」に昇格の可能性も

さて、信長の下に来た弥助はどういう生活をしていたのかというと、かなりの好待遇だったようです。

そもそも名前をつけてあげるくらいですから、信長は弥助のことを奴隷扱いのままにはしませんでした。
きちんと衣食を用意してやり、従者として側で働くよう命じたのです。

イエズス会の記録の中に「信長は弥助を殿にしようとしていた」という記述があるそうですが、ひょっとしたら城主のほうではなく、結婚させるか屋敷を与えるかして「殿」と呼ばれる身分にしてやろうか?という意図だったかもしれませんね。

弥助の心情がどうだったのかははっきりわからないものの、奴隷扱いから一転した生活になったことは充分理解していたでしょうから、信長と織田家には好感を持っていた可能性が高いと思います。

それがハッキリわかるのが、本能寺の変に関する弥助の行動です。
彼はこのときも信長の側にいたのですが、主人が自害した後、二条城へ向かい織田信忠へ加勢しているのです。

いったん本能寺を出ることができたのですから、逃げようと思えば逃げられたでしょう。でも、弥助は信忠を助けようとした……ということは、信長の命を受けていたか、あるいは弥助が自発的に信忠を助けたいと思ったかどちらかではないでしょうか。

どちらにしろ、信長父子に好意を持っていなければできないことですよね。

 

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生き延びた弥助のその後は?

結局信忠も自害してしまいますので、弥助は二人を助けることはできませんでした。
が、本人の命は助けられました。

光秀は弥助のことを人間ではないと思っていたようで、元いた南蛮寺に送ったといいます。
弥助のことを差別していたのか、それとも本来関係のない異人だから助けてやろうとしたのか、そのあたりは変の理由と同じく不明です。
光秀はキリスト教もあまり好きではなかったようなので、どっちかというと前者の可能性が高そうな気もしますね。

このとき弥助が信長の首を持ち出してデスマスクを作らせたという話もあるものの、当時の日本にそんな概念があったのか、そもそも奴隷だった弥助がデスマスクというものを知っていたのか?とかいろいろツッコミどころが満載です。
物自体は肖像画と良く似ているのでマジモンの可能性もなくはないですが、そもそもコレ材質何よ?と聞きたくなるくらいピカピカしてるのも気になります。

というか400年以上前のものの割にやたらキレイな気がしたりしなかったり。
保存状態が良いからといえばそれまでですが、ほぼ同時代のヨーロッパのデスマスクと見比べても新しすぎませんかねコレ。

まあデスマスクの真贋は置いておきまして、その後の弥助の軌跡はわかっていません。

一説には九州の有馬家に仕え、沖田畷の戦いに参加したともいわれています。
信長に会う前、有馬晴信にも謁見したことがあるのは事実らしいので、とりあえず面識のある武士に仕えようとしたというのはありえそうな話ですね。南蛮寺で大人しくしているのは性に合わなかったんでしょうか。

また、故郷モザンビークに帰ったのでは?という説もあります。

現代でも飛行機を乗り継いで丸一日かかりますから、現実的にはちょっと無理な気もしますが……まったく根拠がないわけでもありません。
モザンビークには「キマウ」という、日本の着物によく似た民族衣装があるらしいのです。

残念なことに、画像検索しても「スタッフが現地の方に着物を着させた」っぽさがプンプンの写真しか出てこないので詳細が不明でして…。

他にもモザンビークから来日・帰国した人がいたのかもしれませんが、もし弥助が日本の着物を持ち帰って伝えたのだとしたら、そこからも彼が日本や織田家にどういう気持ちを抱いていたかがわかりそうですよね。
いつか真相がわかればいいですね。

長月 七紀・記




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【参考】弥助/wikipediaより引用

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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