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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

奈良の平城京遷都は7月10日じゃなくて3月10日

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勘違いや地域性によって言葉の取り違えが起き、話が通じなかったり連絡不備が起きるのは珍しいことではないですよね。

食べ物の名前や定食の組み合わせなどがいい例でしょうか。
歴史において切っても切れないあの言葉にも、同様の事態が起きているような気がします。

和銅三年(710年)の3月10日、日本の首都が平城京に移りました。

「なんと見事な平城京」の語呂合わせでお馴染みですが、日付がきっちりわかっていることはあまり知られていないのではないでしょうか。どうせなら7月10日だったらもっと覚えやすかったのに(´・ω・`)
現在の自治体でいうと奈良県奈良市~大和郡山市あたりにあったのですが、「じゃあ、それまでの首都はどこにあったの?」と聞きたくなってしまいますよね。
実は平城京とさらにその後の平安京に移るまで、日本の首都はかなりの迷走っぷりをたどっているのですが、あまりにややこしいので教科書では大部分がカットされているのです。

 

藤原京までは「京=町」ではなく「宮=建物」

最初期の首都については、神武天皇の存在と同じくはっきりしたことはまだわかっていません。
いくつか「○○宮」という名称だけが伝わっており、実在がほぼ確定している第10代・崇神天皇の都であった磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)が今のところ具体的な候補地が出てきている最古の都です。卑弥呼の墓説などのある前方後円墳のある三輪山のふもと周辺(奈良県桜井市)ですね。

「宮」というのはこの場合天皇の住まいを表していますので、当時の首都が平城京・平安京と比べてかなり小規模であったことが窺えます。まだ人口もずっと少ないですし、アレコレの元になる貴族もそんなにいませんでしたしね。
「みやこ」という言葉は元々「宮処」と書いていたので、人口や建物が多くなり都市化した宮の周辺も「都」という字で同じ読みを当てたのだとか。

 

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藤原京と平安京は女帝が造った

中国の首都を真似て碁盤の目状の都市区画がされるようになったのは、平城京のひとつ前、藤原京(奈良県橿原市)からといわれています。
名前からなんとなくあの一族の陰謀のニオイがしますが、このときはもともと藤原という地名のところに都を作っただけなので、あまり関係ないそうです。
ちなみに藤原京は持統天皇、平城京はその妹・元明天皇が作らせた都でして、「女帝が国の中枢部を作った」と見るとなかなか興味深い事実ではないかと。先代の意向を引き継いだとも言われていますが。

ちなみに日本の場合、遷都の理由は他の国と大きく違います。
ほとんどのケースは「最近不吉なことが多くなったので首都変えました」というもので、実に平和です。規模のデカイ験かつぎとでもいえましょうか。
他の国だと王家が滅びる=首都が変わることが多いのですが、これは天皇家がずっと健在であることも大きく関わっていますね。

理由が比較的穏やかな代わりに、立て続けに不幸があるとたとえ前の遷都から10年程度しか経っていなくてもお引越しをしていたので、それはそれで何だかなあという気がしなくもないですが。
最終的に長岡京をへて、平安京へ落ち着いたのは、不幸の元となる怨霊を鎮めるため、土地の霊的なものが強く働くとされる場所を選びに選び抜き、実際に鎮まったことからと思われます。
この辺の経緯はややこしくおどろおどろしいお話なので、ご興味のある向きは「平安京 長岡京」で調べてみてくださいね。

 

武士たちはなぜ遷都しなかったのか

時代を降りまして、日本史の中で半分程度を占める武家政権の時代、遷都を考えた人はほとんどいませんでした。平清盛が福原に遷都しようとしたくらいですね。
上記の通り平安京の場所がベストとされていたこともありますし、各幕府は天皇に任命されて政治を代行しているという名目でしたので、もしドンパチ等があったときに天皇家に累が及ぶことのないよう、わざと幕府の中枢を離していたと見ることもできます。
事実、源平の合戦や南北朝、応仁の乱など、京都周辺が乱れたときには直接関わりがあろうとなかろうと、皇居や皇族も迷惑を被っていますからね……。
権威の元である天皇がいなくなってしまうと、幕府の正当性が薄れてしまうという極めて自己ちゅ……実利的な理由が大きかったのではないでしょうか。
天皇や宮廷に実権がほとんどなくても、ずっと滅びなかった理由と同じであるということもできそうです。

現在日本の首都は東京とされていますが、実はそのように定めている法律がないことも、もしかしたらその名残かもしれません。

太平洋戦争時、原爆投下の最有力候補地は京都だったという話があるのですが、「日本人の精神的な柱をへし折れるから」という理由が含まれていたそうです。つまり、アメリカから見ても東京ではなく京都が日本人の支えであると受け取られていたんですね。
しかし、これをやってしまうと日本を脅して降伏させるどころの話ではなくなる危険性が高いと判断されたため、中止になったのだとか……。

ちなみに「文化財を守るために京都を避けた」というのは都市伝説です。同じ欧米圏・キリスト教であるドイツの都市ドレスデンで、イギリス・アメリカ空軍は歴史ある教会や数々の文化財を省みることなく徹底的な爆撃をしていますので、黄禍論まっしぐらだったアメリカが日本文化に対して精神的な配慮をしていた可能性は低いでしょう。ただ、実際に、作戦を決める将校の一人は文化面を含めて強く反対したという事実もあるようです。

異教徒の建物がそのまま使われ、現在も残っているアルハンブラ宮殿(スペイン)やアヤソフィア(トルコ)等と比べると、天と地どころか太陽とアンドロメダ星雲くらいの格差があります。

まあ、海の向こうへのブーイングはそこまでにしまして、話を”都”に戻しましょう。

 

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東京への遷都は裏付けなし?

江戸が東京になったのは明治天皇が江戸城へ移ったことによるものですが、このときも徳川の名残を消すという理由のほかに、「天皇のいるところは”都”でなければならん」という理由で「東の京都」と改名されたのだそうです。
しかし法律でこれを定めてしまうと世論の反発を招くと考えたのか、慣習法(という名のうやむや)にするつもりだったのか、あるいはすっかり忘れていたのか、明文化されないまま今に至ります。
ですので、京都から首都機能が移っただけで、正式な首都は今も京都であるという見方もできるのです。
このため今でも京都では「天皇家は東京へお出かけなさっている」と考える人も多い?とか。

多分「都」がつく単語の中で今最も話題になっている「大阪都」については、言葉の意義やここまでの諸々から考えると、中身はともかく名称には疑問符をつけざるを得ません。
伝説上現在の大阪府の中に存在していたとされる都もあるものの、いずれも奈良県に近い地域ですので、地理的な点から見てもどうかなあと。
一本化による行政のムダ削減を目指すことについてはとても意義があると思いますが、すぐ近くに本来の都・京都があるのですから、わざわざ「都」という混乱を招きそうな名称を使う必要性はあまりないかと。

おそらくH元市長は都会あるいは都市という意味で「都」を使いたいんでしょうね。
大阪に文化的な意味がないとかそういう意味ではありませんので、地元の方お怒りにならないでくださいませ。たこ焼き最高!!!




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