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イラスト/富永商太

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武田・上杉家 その日、歴史が動いた

上杉謙信の跡目でモメた「御館の乱」 勝ったのは姉の子・景勝か、それとも北条家からの養子・景虎か

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越後の龍こと上杉謙信が突然亡くなったとき、残された上杉家の人々は大いに困りました。
遠征の準備がほぼ無駄になってしまったこともそうでしょうし、何よりまだ跡継ぎが決まっていなかったのです。
それは、後一歩で上杉家が滅亡していたかもしれないほどの悪影響を残しました。

天正七年(1579年)のあす3月17日、謙信の後継者争いである「御館の乱(おたてのらん)」の勝者が実質的に決まりました。

勝ったのは謙信の甥っ子景勝で、負けたのは後北条家から養子に来ていた景虎でした。
謙信は生前公式な場でどちらを後継者にするかといった話をしていなかったため、義理とはいえ兄弟の争いになってしまっていたのです。
「人間五十年」の時代に48歳になっても跡継ぎをはっきりさせておかなかったのかYO!?とも思えますが、「ワシは毘沙門天の化身だから死なん」とか思ってたんでしょうかそんなバカな。

 

謙信の死後1年も続く内乱

謙信の謎が一つ増えたところで、乱の経過を見ていきましょう。
この戦いは謙信の死後一年もやっていたわけですが、そこまでこじれたのにはいくつか理由があります。
謙信の意思が不明なことに加え、周囲からの扱いからしてもどちらが後継者と言い切れない状態だったのです。

例えば、”景虎”は謙信の元服直後の名前だったため「名前を継がせたのだから、謙信は景虎を後継者にするつもりだったに違いない」という考え方ができますよね。
対して景勝は「御中城様」という呼び方をされていて、これは上杉家内で謙信を呼ぶときに使っていた「御実城様」と酷似しているため「次期当主としての敬称だったに違いない」なんて説もあるのです。

さらに、上杉家臣や周辺の大名からの扱いも真っ二つに分かれていました。
景虎には実家である後北条家はもちろん、その同盟つながりで武田家・伊達家他、近隣の大名が味方しました。
景勝はというと、謙信の側近中の側近だった家臣たちや、謙信の他の養子二人、そして上杉家本拠である春日山城周辺と景勝自身の地元から多くの味方を得ています。
このことから、家中では景勝、外部からは景虎が次期当主と目されていたのでは?といわれています。

条件としてはほぼ互角だったわけですが、行動を起こしたのは景勝が先でした。
景勝は謙信死去の報を受けるや春日山城本丸に入って景虎を締め出し、外部へも「義父が亡くなったので当主になりました。よろしく」と発表しています。こうした書状には重臣達の連署もあり、景勝が後継になることは正当なものであると念を推す形になりました。
景虎がこれを承諾するはずもなく、小競り合いからやがて戦に発展していきます。
しばらくの間、景虎についた後北条家が春日山城まで攻め込んでくるなど、外部の大名を巻き込んだ戦いも数度繰り返されましたが、景勝方の地方領主に撃退されるなど一進一退の状態が続きました。

 

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外から支援を求めるか 内から固めるか

戦の経過からも、二人の方針の違いはよく見て取れます。
上記の通り、景虎は外部の大名を引き込むような形で助力を得ようとしましたが、景勝は先に春日山城や謙信の書状など物的証拠を押さえることを重視しているのです。
現代の相続における裁判で無理やり例えるとすると、景虎が敏腕弁護士を集めたのに対し、景勝は故人の日記や通帳・印鑑などを確保したというところでしょうか。かなり大雑把ですが。

また、景勝は敵方を丸め込むためにかなり気前の良いこともしています。
武田家に対し「金のお饅頭に領地オマケするから、景虎につくのやめてくれない?」と申し入れたのです。

「裏切って俺につけ」といわないあたりがミソですね。

信玄を失い、長篠の戦いで負けて滅亡の兆しが見えていた武田家としては、できればよそのいざこざに関わるより内部の結束を図りたかったのでしょう。勝頼はこれを受け入れて、景勝と同盟を結びました。
一方的にもらいまくるのには気が引けたのか、妹・菊姫(織田信忠の婚約者・松姫のお姉さん)を景勝に嫁がせており、景勝と勝頼双方にある程度友好的な雰囲気ができていたようです。

信玄が亡くなる前に「謙信はアテになるから、いざというときは仲良くしろ」と言い残していたのが良かったのかもしれません。勝頼の目には、景虎よりも景勝のほうが謙信の意思を継いでいると見えたのでしょうか。

こうして景勝は戦以外の方面からも足場を固めていったのですが、これを見た景虎方の人々は「もう景虎無理じゃね?」と思った順に相次いで離れていってしまいました。相次ぐ離反に対し、景虎は具体的な対策をすることができず、春日山城下にあった役所に篭ります。
この役所の通称が「御館」だったのでこの戦いは”御館の乱”と呼ばれることになったのです。

そして天正七年の3月17日に景勝が御館へ総攻撃をかけて攻め落とし、この内乱は終結を迎えることになります。
景虎は一度は逃げたものの、味方側であったはずの城に立ち寄ったところで裏切られ、結局自害して果てました。
しかしそれで越後の将全てが納得したわけではなく、最後までゴネた人々をまとめるまでには、さらに一年ほど時間がかかっています。

ちなみにこの間、織田家が「謙信以外なら怖くないぜイヤッホォォオオウ!!」とばかりに攻め込んできて上杉側が負けていたりするので、もしもっと長引いていれば上杉家の存続自体が危うかったでしょう。
本能寺の変までにはまだ数年ありましたしね。

 

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その後の上杉は…

こうしてギリギリのタイミングで内乱を収めることができた景勝でしたが、その後は信長との戦いや秀吉からの無茶振りなど、新たな困難に立ち向かっていくことになります。
最終的にどうなったかは……この辺の過去記事を見ていただくのが良いかと。

大損ルート
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気付いたら上杉家ばかりで武田家をさっぱり取り上げてませんね。今気付いた。
上杉家が、というより景勝が好きなすすいませんてへぺろ。
当コーナーは「地味な二代目と不遇な息子に全力で肩入れする」のが方針ですので、いずれ勝頼にも登場してもらいましょう。

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長月七紀・記

 





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