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その日、歴史が動いた

鎌倉時代 世界では西と東で大人気ないケンカが起こっておりました ローマ教皇のお使いモンゴルへ【その日、歴史が動いた】

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先進国・列強というと近現代~現在においてはヨーロッパ=西洋とほぼ同義ですが、人類五千年の歴史からすると実はほんのわずかだったりします。

むしろ半分を過ぎるくらいまでは東洋、特に中国付近が最先進国だったこともあるのです。
本日はその境目、ひっくり返る前の時期のお話です。

世界最強の横綱モンゴルへローマ教皇からお使い

1245年(日本では鎌倉時代の寛元三年)のあす4月15日、プラノ・カルピニという修道士がローマ教皇の命を受けてモンゴル帝国へ旅立ちました。
もちろんただの旅行ではありません。
モンゴル帝国は当時世界で最も強大な軍事力を持っており、この時期ヨーロッパへも食指を伸ばしていました。
どのくらい強かったかというと、神聖ローマ帝国とポーランド王国・その他諸々の連合軍がものの見事にやられています。ヨーロッパ連合軍の基本戦術が騎士の突撃だったのに対し、モンゴル軍は偽装撤退するわ左右から射掛けるわ煙幕で分断させるわで、まるで大人と子供のような戦略の差でした。
コレを見て「黙ってるとそろそろウチもやばくね?」と危惧を抱いたローマ教皇庁が、モンゴルと交渉するために行かせたのです。

とはいっても、教皇が持たせた手紙の内容は「ウチには神のご加護があるんだから、手出したらただじゃすまないのはそっちだからな!今引き下がれば、特別に洗礼を受けさせてあげるけど?」(超訳)というようなものだったので、隆盛を誇るモンゴル帝国にとっては屁の河童。
モンゴルからの返書は「そっちこそ頭下げるなら今のうちじゃね?でないと何するかわかんないよ(笑)」(超訳)ってなもんでした。
双方共に言ってることがジャイアンより低レベルです。ジャイアンは小学生ですからまだしも、13世紀とはいえこれが大人のやったやり取りとは……文明とか礼儀の進歩って大事ですね。

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暇だったからか たくさんの記録を残す えらいぞ!

カルピニさんが通った道(Wikipediaより)

当然この態度は使者であるカルピニ達にも現れており、待たされて散々な思いをしたようです。
しかし、彼は信仰心の成せる業か、はたまたただ単に好奇心旺盛だったのか、国防のためか、モンゴルの都や軍について事細かに観察し、記録を残しました。
王様がキリスト教徒ではないこと、軍の組織や統率がしっかりしていることなど、西洋からするとまさに異端・異教徒にも関わらず栄華を誇っている国の存在をレポートに纏め上げたそうです。
これを西洋諸国や教皇庁がどのように受け止めたかはわかりませんが、カルピニ自身は「こういうことをきちんと理解しておけば、ウチらが負けることは多分ないでしょう。多分」(超訳)という結論を出しました。

後世「キリスト教徒でなければ人にあらず」とでもいいたげな態度をあからさまにする民族の一員としては謙虚な態度ですが、この頃の世界では中国・モンゴルを始めとした東洋のほうが文明的に進んでいる面も多くあったからだと思われます。

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ローマ教皇はじめて神ならぬ紙を見る?!

いわゆる”中国の四大発明”(羅針盤・火薬・紙・印刷)の全てがすっかり定着していましたし、事実このときモンゴルから受け取った返書が「ローマ教皇が初めて目にした”紙”」だったといわれているのです。
ヨーロッパにも製紙工場はあったのですが、モンゴルから来たもののほうが質が良かったのでしょうね。
ちなみに教皇からの手紙は羊皮紙(羊の皮の毛を抜いたりして紙代わりにしたもの)に書かれていたそうです。
一応「大事な文書に使うもの」ということにはなっていたので、この一点だけでヨーロッパが後進国であったということはいえませんけども。きちんと保管されていれば1000年以上持つらしいですし、今でも外交の場などで使われていますしね。

ヨーロッパでは製紙技術が遅れていたために、羊皮紙が正式なものであって紙は国交などに使うものではないとされたのかもしれません。
でも、見下していた東洋から非常に優れた質の紙が送られてきたのですから、それだけでも彼我の文明の差について悟ることはできた……かも。

東洋が覇者のままならiPhoneはできていたのだろうか?

 

~横綱白鵬オフィシャル応援歌~天運

四大発明は、モンゴル帝国の西方遠征によって中東やヨーロッパに伝わっていったともされています。
征服された側からは”タタールのくびき”などあまり良いイメージのない単語で表現されることが多いですが、そうした意味では文化的な発展のきっかけになったと見ることもできるんですね。
……ペストもこのときヨーロッパに持ち込まれたという説がありますが、まあ一説だからゲフンゲフン。

先進国の座が西と東でひっくり返ったのは、おそらく大航海時代が境目と思われます。
中国でもヨーロッパに先駆けてアフリカへ行った人がいたのですが、あまりに費用がかかること、中華思想や儒教の影響により、それ以降海外進出をしようとしなかったのです。
ヨーロッパの国々は逆に、香辛料や金銀山を求めて積極的に外へ行くようになりました。
時期的にも入れ替わったかのようなタイミングですし、やはりここが転換点だったでしょうね。
その後の世界史を考えると、どちらがいいとも悪いともいえませんが……こういう流れを見てみるのも歴史の醍醐味ではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/プラノ・カルピニ
   http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-405.html





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