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細川幽斎/Wikipediaより引用

その日、歴史が動いた 細川家

細川幽斎(細川藤孝)は戦国Mr.パーフェクト 武芸・和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理なんでもござれ

更新日:

どんなに優れた人であっても、一つや二つ欠点もしくは苦手分野があるものです。

が、歴史上にはそんな世の常識を鼻で笑い飛ばすようなチートもごくたまに登場します。
本日の主役は、教科書には出てこないながらに「アンタ反則」としか言いようのないスペックを備えていたあの人です。

天文三年(1534年)の4月22日、細川藤孝が誕生しました。雅号での表記・細川幽斎のほうが有名でしょうかね。

”日本史ドギツイエピソードに事欠かない人物ランキング”なんてのがあったら、まず間違いなくランクインするであろう細川忠興のお父さんです。

じゃあ父親のほうもかなりアレな人だったのかと思いきや、案外そうでもありません。

藤孝は室町幕府の管領(No2)の役職に就ける家柄の一つ、細川家の分家筋に生まれました。この時点で勝ち組の予感がひしひしとしますが、経歴がまたスゴイ。
5歳で将軍(パパ?)に謁見、13歳で元服、はたちで家督を継ぐというショートカットぶりです。(実は、母が12代将軍の足利義晴の側室で、懐妊したままお父さんに下されたという、平清盛的な説もあります)

おそらくこの間に和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理などの教養や、刀・弓といった武術を身につけたと思われます。家柄と腕前と風流が全部揃ってるとかチート以外に何と表せばいいのやら。
が、順調だったのはそこまで。

 

文武両道のチートが32歳で「るろうに剣心」

藤孝32歳のとき、剣豪将軍として名高かった十三代・義輝が暗殺されてしまい、その弟義昭を救出してからは流浪生活をするハメになってしまいました。
流浪中と思われるエピソードに「あまりにお金がなくて照明用の油すら買えないので、神社から失敬した」なんて話があるので、名家の生まれの割にはお高く止まっていたタイプではなく、現実主義者だったっぽいことが窺えます。

そして義昭と共に幕府再興を狙ってあっちこっちの大名の間を渡り歩きますが、織田家へ行った際「あれ、もしかして義昭様より信長さんのほうがイイんじゃね?」と思い直し、実質的に信長の家臣のような働きをしていました。
余談ですが、藤孝と信長は同い年でしたので、その辺から親近感が生まれたのかもしれません。
40歳で信長から長岡(現・京都府長岡京市あたり)に領地をもらったため、一時期長岡姓も名乗っています。

 

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明智光秀の娘ガラシャの「おとうさん」に

また、同時期に長男・忠興と明智光秀の娘・たま(後のガラシャ)との婚姻が決まり、前後して光秀と行動を共にすることが多くなりました。ちなみにこの夫婦も同い年です。

信長と同い年である藤孝の息子と、一説には信長より10歳以上年上とも言われている光秀の娘が同年生まれというのも、現代の感覚からするとなかなか実感がわかない話ですね。
忠興は長男で、たまは三女だから年代が合ったんでしょうか。

となると姻戚関係的に本能寺の変にも関わってきそうですが、ここでまた藤孝は極めて現実的な選択をします。
光秀から再三の要請を受けたにもかかわらず、「私は信長様の死に哀悼を示し、出家します。後のことは息子がやりますのでよろしく。ぶぶ漬けでもいかがですか?^^」(超訳)という返事をし続けました。
いかにあの忠興でも父親の方針と真逆の行動を取るわけにはいきませんので、細川親子は揃って光秀への与力を拒否します。
このように、本来協力して然るべきだった姻戚関係の家や、旧知の仲である大名への根回しができていなかったことは、光秀が最終的に天下を取れなかった理由の一つとも言われていますね。

そして秀吉の天下になると、藤孝はその教養を高く買われ、武士としてというより文化人として茶会や歌会などの仕事を多くするようになります。名目上は隠居の身という理由もあったでしょう。この頃既に50歳を超えていますから、当時の感覚としては自他共に「棺桶に片足突っ込んでる」と思っていたとしてもおかしくはありません。
実際には江戸時代まで生きてたんですけどねこの人。

 

関ヶ原でみせた巧みな処世術

彼の人生で歴史的に最後の見せ場だったのは、関が原のときです。
藤孝は既に豊臣一門を見限っており、家康に接近していたので当然東軍側でした。
そして丹後・田辺城(現・京都府舞鶴市)の守将になっていたのですが、ここを1万5000もの西軍に取り囲まれてしまいます。ちなみに城兵は500程度だったそうです。単純な兵数だけでも30倍の戦力差。これはひどい。
しかし城側の戦意は高く、また三男・幸隆が一緒にいたことで藤孝自身も心強かったらしく、なんと50日もの間持ちこたえました。やっぱり戦る気は大事ですね。

田辺籠城図(まいづる観光ネット

攻め手の武将には藤孝の歌道の弟子が何人もいたので、「お師匠様をSATSUGAIするのはちょっと……」という引け目もあったようです。そもそも田辺城は忠興の城だったので、そこに藤孝がいることは事前にわかっていて当然なのですがこのgdgdぶり。
田辺城の戦いは6月~9月に行われていた=関が原本戦の前だったのですが、この時点で西軍の戦略のまずさがありありと見て取れます。

これを見かねたのは、三成でも家康でもなく朝廷、もっと言えば皇室の方々でした。もちろんgdgdぶりに、ではなく藤孝が危ないということに対してです。
当時藤孝は上記のチートぶりに加え、”古今伝授”という秘伝を受け継いだ唯一の人物として知られていました。何か必殺技みたいな名前ですが、武道ではなく和歌の話です。
平安時代勅撰和歌集・古今和歌集の解釈について、代々語り伝えてきたいわば”秘伝のタレ”みたいなもので、この時代藤孝以外にそれを知る人物はいませんでした。
そのため、「アイツが死ぬと誰もわからなくなる!それはマズイから早く戦をやめさせよう!」という話になったのです。……何だか微妙に美しくない話のような気がしますが、気にしないでおきましょう。

しかし藤孝の戦意は常にMAXだったので、弟子の一人である八条宮智仁親王という方が講和を呼びかけても「ありがたいお話ですが、ぶぶ漬けどうぞ^^」(超訳)という態度でした。しかもただ断るだけでなく、貴重な和歌集などを献上するという徹底振り。どこからどう見ても言うことを聞くつもりがありません、本当にありがとうございました。
が、やはり藤孝を死なせるわけにはいかないと判断した智仁親王は、ついに最後の手段に出ます。

実兄・後陽成天皇の勅命による講和を引き出したのです。
戦国時代の天皇というととかく軽視されていたと考えがちですが、かつてはあの信長vs本願寺の戦すら止めさせたのですから、さすがの藤孝も意地を張り続けることはできませんでした。

講和が成ったのは9月13日、関が原本戦の2日前というギリギリぶりだったものの、おかげで藤孝も幸隆も命が助かり、さらに西軍の戦力を削ぐという大きな功績を挙げることになります。
ちなみに田辺城を包囲していたいた1万5000という兵力は、戦国のユダ(今命名)こと小早川秀秋が率いていたのと同等の数です。講和時点では当然もっと減っていたでしょうけども、この数字を見ると細川親子の働きがいかに大きかったかが窺えます。
もしかしたら、藤孝はそれを見越して粘ってたんですかね。いやあ頭のイイ人は恐ろしいわー。

 

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生涯側室をもたず=NHK大河ドラマに決定か

関が原の時点でも藤孝は既に70歳近かったため、その後慶長十五年(1610年)に亡くなるまでは今度こそ本格的な隠居生活をしていたそうです。
彼は生涯側室を持たず、この頃も正室が存命していましたから、老夫婦で仲良く暮らしていたのではないかと思われます。隠居所も生地・京都東山に近い吉田ですから、まさに理想の老後ですね。

ここまで見ると愛妻家以外に息子との共通点があまりなさそうに見えますが、ブッ飛んだセンスにおいては血筋を感じる逸話もあります。しかしやはり歌に関するものが多いのは流石というか何というか。
個人的には江戸時代に入ってからの話で、「江戸城でうたた寝してたら芝の屋敷が燃えてた。一句詠んだ。家康が褒めた」という話が好きです。訳はいつも通りテキトーですけど、コレ全部実話なんですよホントですったら。
出典は忘れましたテヘペロ。

その他良い意味でネタに事欠かない方なので、文武両道タイプがお好きな方は彼について調べてみてはいかがでしょうか。

長月 七紀・記

細川藤孝がのこした信長文書について⇨「新発見!織田信長の幻の上洛計画!早くから天下統一構想を持っていたのか」

参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/細川藤孝




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http://www.maizuru-kanko.net/story/tanabejyo

 





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