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その日、歴史が動いた

北海道から異例の大出世も 国際感覚ありすぎて失脚した松前藩主【その日、歴史が動いた】

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現在の日本の「県民性」や「土地柄」については、江戸時代の習慣などが強く影響しています。
また、幕末に佐幕派だったか討幕派だったかというのも大きいですよね。有名な例では、以前萩市(元長州藩・討幕派)から会津若松市(元会津藩・佐幕派)へ「もう120年も経ったので、友好都市になりませんか?」と持ちかけた際、「”まだ”120年ですから」断ったという話があります。
現在の萩市その他元長州藩地域の人々に直接の責任はないにしろ、会津戦争時にはかなり酷いことをされているので、無理もない話なのですが。しかし、最近は震災時の支援などで大分軟化してきているようですね。
(会津戦争についてはこちらの記事をご覧ください→実は明日だった 会津の若松城降伏【その日、歴史が動いた】)

で、この例が有名すぎる&奥羽越列藩同盟(現・新潟+東北+北海道の藩が結んだ反明治政府派の同盟)のイメージが強いため、江戸末期「福島から北は反明治政府派=西洋嫌い」という印象が強い方が多いのではないでしょうか。
が、実は東北にも親西欧派がいたのです。

慶応二年(1866年)の4月25日に亡くなった、松前崇広(たかひろ)という大名です。
お名前通り松前藩(現・北海道松前郡)のお殿様で、外様大名でありながら老中に就任したほどの人物でした。

今ある松前城を城郭にしたのも彼です(天守閣はその後の再建、Wikipediaより)

なんでこれがスゴいのかというと、家康が「身内と譜代以外は全部ヨソ者な」という方針を掲げていたので、江戸幕府では決まった家(基本的に家康の直接の部下だった譜代のみ)の人しか出世コースに乗れなかったのです。今だったら人権問題になりそうですね。
ですので、どんなに頭が良くてもエラくなれないこともあれば、どこからどう見てもアホな人が”イイ家に生まれたおかげで”出世するということもありました。「優れた人の子孫が優秀でないはずがない」という考え方もあったのでしょうけども、特に太平が根付いた時期以降にあっちこっちで起きたお家騒動などを見ると、アレーオカシイナーといわざるをえません。

そうした慣例が根強い中で、なぜ崇広が老中になれたのかというと、ある意味タイミングが良かったからです。
時はまさに大政奉還戊辰戦争直前。幕府の中でも欧米列強へどう対処すべきか意見が割れていました。そこで「とりあえず、西洋についてもっと知っている人間を幕閣に入れよう」という方針が採られ、その一人として崇広が選ばれたのでした。

崇広は松前家の六男で、本来であれば藩主の座に就く可能性はとても低かったのですが、本来跡目を継ぐ人がまだ子供だったので、中継ぎ的な立場で松前藩主になっていました。
また、藩主にはなれそうにないからといってグレることもなく、幼少期から武芸や学問に打ち込んでおり、その中で西洋の文物や機械についても学んでいたのです。
これまた先日のモルトケ同様「芸が身を助けた」例といえそうですね。

そしてときの将軍・十二代家慶から正式に任官を受け、北方防備のための築城など地道に仕事をしました。
途中で「今まで蝦夷地についての仕事は松前藩にやってもらってたけど、今度から幕府がやるからお役御免な^^」というお財布への爆撃・地元民との衝突などもあったのですが、それでも崇広を老中にしたのですから、多分そのくらいでは揺るがない信頼を得ていたのでしょうね。
……この時期の幕府に人材がいなさ過ぎただけとかそんなまさか。

こうしてすったもんだの末、崇広は外様大名でありながら異例の出世コースを歩み、第二次長州征伐の際には十三代家茂のお供を勤めたほどでした。
が、たった一つの失敗によりあっけなくクビになってしまいます。
その原因は、もう一人の老中・阿部正外(まさとう)と勝手に兵庫を開港してしまったことでした。

当時イギリス・フランス・オランダから「兵庫と大坂で貿易できるようにしてくれないと、何するかわかんないよ?www」という脅迫めいた交渉にあたっていたためです。
既に下関戦争や薩英戦争で欧米の火力は充分わかっていますから、ここで対応が遅れれば、今度こそ欧米vs幕府の全面戦争になりかねません。そこで崇広と正外は朝廷の許可を待つことなく、開港を決めてしまったのです。

が、こんなデカいことがバレないわけもなく、翌日一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)に「何勝手なことしてんだバカヤロー!朝廷から許可が出ないって先延ばししとけばよかっただろうが!」(超訳)とこっぴどく叱られます。

しかし老中二人は「いやいやいや、アイツら”今許可してくんないと、ウチら直接天皇さんと交渉しますけどそれでいいんですね^^”とか言ってるんですよ!そんなことしたら危なさ過ぎるじゃないですか!!」(超訳)と反論しました。
両者とも100%間違っているとは言い切れず、まさに口角泡を飛ばしあう状態に、家茂が泣き出してしまったほどだといいます。

結局朝廷から「アンタさんたち、こっちの許可も取らんと何してはるんですか?責任を取ってもらいますえ」(超訳)とお咎めを受け、家茂は不本意ながらに崇広と正外を免職の上、国許での謹慎を命じました。




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そして慶応二年(1866年)の初めに帰国した崇広は、その3ヵ月後熱病を得て亡くなってしまったのです。
崇広の写真(冒頭の写真、Wikipediaより)を見る限り、いかにも身体頑健な人のように思えますので、この”熱病”というのはかなりアヤシイ気がしますが……それは言わないお約束ですかね。
この時期日本ではコレラの流行が度々起きていましたから、まったくありえない話ではないのですけれども。
デキる人が正しく評価されないというのは現代でもままある話ですが、なんとも後味の悪い結果です。
長月七紀・記
参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/04/post-f9b7.html
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%B4%87%E5%BA%83

 




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