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彰義隊との上野戦争の様子/国立国会図書館蔵

西郷どん特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

彰義隊が散った上野戦争 旧幕府軍の悲しき結末を振り返る

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上野戦争とは、簡単に言うと戊辰戦争局地戦の一つ

「人類の歴史は戦争の歴史である」と言われる通り、残念ながら有史……いや、おそらく先史時代から人が集まればもめごとが起きるものです。人類滅亡までには世界平和が実現して欲しいものですが、なかなかそうもいきません。
なにせどこの国でも、必ず一度は国土全域を巻き込んだ戦争をやっています。
ヨーロッパなんぞよそんちのゴタゴタに首を突っ込むわ巻き込むわで二度も世界大戦を起こしているにもかかわらず、20世紀末から21世紀の初頭までまでそれを引きずってとんでもない内戦になってしまったところもありました。
本日はそこまでではないにしろ、日本国内最大の内戦だったあの戦に関わるお話です。

慶応四年(1868年)のあす5月15日、上野戦争が発生しました。

「上野動物園のトップはライオンなのかパンダなのか」とか「来年の花見の特等席を巡って」とかだったら良かったのですが、残念ながら違います。当たり前ですね。
ものすごく簡単に言うと、戊辰戦争の局地戦の一つです。
幕末での江戸というと江戸無血開城のほうが有名なのでほとんど忘れ去られていますが、城以外の場所では戦闘がありました。

戊辰戦争での有名な戦いとともに時系列順で説明しようと思ったら、同時進行が多すぎて余計ワケワカメになりそうだったのでやめておきますね。
時期的には、会津戦争と北越戦争が始まって”一方その頃江戸では……”みたいな感じです。
このタイミングでしかも一日で戦闘が終わってしまったため、上野戦争はほとんど知られていないのでしょうね。

完全に蛇足ですが、ワタクシめの地元・千葉県北西部でも上野戦争の前にドンパチが起こっておりまして、資料の中身がごくごく近所の地名の連続で「あそこで戦ってたの!?」とびっくらこいた覚えがあります。
上野近辺にお住まいの方は、もしかしたらそんな気分になられるかもしれません。

上野戦争の様子(タイトルはなぜか本能寺合戦之図となっているが実際は上野戦争を描いている)/国立国会図書館蔵

 

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「アイツら片付けとかないと後々危ないんじゃね?」

さて、そろそろ本題に入りましょう。
何で上野でこんな物騒なことになってしまったのかというと、旧幕府軍の一部が「まだだ、まだ終わらんよ!」と粘るため一軍を結成し、その本拠を上野に置いていたからです。
「彰義隊」という実に厨にもといカッコイイ名前の部隊だったのですが、幕末の団体によくあることで仲間割れし、過激派がさらに新撰組の残党とくっ付いて「殺ってやるぜ!!」とテンションを上げてしまっていました。

元は徳川慶喜の警護のためと称して結成されたにもかかわらず、この物騒な人々は慶喜が水戸に向かった後も江戸に居座り、不穏な空気を醸し出します。

そこで「アイツら片付けとかないと、江戸が後々危ないんじゃね?」ということで、新政府軍が討伐に乗り出したのが上野戦争です。
いつも通りテキトーですがホントにこんな感じだったから仕方がない。

 

大村益次郎どんは鬼でごわすか!?

とはいえいつまでも手こずっているわけにもいかないので、新政府軍は容赦しませんでした。
指揮を務めたのは、大村益次郎という長州出身の人物。外見から「火吹きだるま」という、今だったらイジメレベルのあだ名をつけられていましたが、それに惑わされてはいけません。

大村益次郎/国立国会図書館蔵

ちょっと前の第二次長州征伐のときにはそれまで存在すらしていなかった市民の軍を編成するわ武器を買い集めるわ、容赦なく最新ライフルや大砲をぶっ放すわで、見事幕府軍を文字通りの木っ端微塵にしたという、どこからどう見ても恐ろしい人物です。
上野戦争でも最初から手加減なんぞするつもりがなかったらしく、その陣容を見た西郷隆盛が「大村どんは、彰義隊を皆殺しにするつもりでごわすか」と尋ねた際「イエスオフコース!!……何か?」と答えたとか。
※実際のやり取りとは天と地ほどの乖離があるであろうことを注記しておきます。イメージですよイメージ。

どんな陣形だったかというと、孫子に出てくる「三方を包囲して一ヶ所逃げ道を開けておく」という実にシンプルなもの。包囲するとはいえ、逃げ道まで塞いでしまうと、破れかぶれになった敵がかえって強くなってしまうからです。ことわざの「窮鼠猫を噛む」とほぼ同じ考え方ですね。

ですのでこれ自体はそれまでの戦でもよく見られた方法だったのですが、大村がその後やったのは容赦ない総攻撃かつ集中砲火でした。

彰義隊側も黙ってやられるつもりはないので応戦しましたが、その結果上野の地一帯が焼け野原としか言いようのない状態になってしまいます。当時の写真を見ると、当日は雨が降っていたというのにこの有様かと絶句してしまうほど。

このとき、戦国の転職王こと藤堂高虎のお墓を擁していた寒松院というお寺も焼失してしまいました。こんな焼け野原になったんじゃ仕方ないですね。そんな中で残った高虎のお墓って一体……。
ご本人の体も隙間がないほどの戦傷だらけだったそうなので、その体がなくなった後に集中砲火受けるくらいは屁の河童だったかも……?

上野戦争で用いたとされるアームストロング砲/wikipediaより引用

 

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死者はしばらく野ざらしという最低の扱い

そんな戦だったので死傷者も多いかと思いきや、新政府側が100名程度、彰義隊は260名超と案外な少なめでした。どっちにしろ戦には違いないのでいいことではありませんが、これは戦闘が一日で終わったことと、元々新政府vs旧幕府というより、それぞれのごく一部同士での戦だったからでしょう。
彰義隊の残党は根岸方面に逃げたものの、その後この名前で隊を組むことはなかったようです。個人的に会津戦争や函館戦争に参加した人がいたといいますから、心の底から新政府が気に食わなかった人の集まりだったんでしょうね。

ということは明治政府にとって「最後の最後まで往生際の悪い奴らの集まり」ですから、当然死後の扱いは最低でした。
徳川家の菩提寺・増上寺や縁のある人物が彰義隊死者の引き取りと供養を申し出ても、認めてもらえずしばらくの間野ざらしにされていたそうです。新政府軍って会津戦争のときも同じことしてますけど、それが文明国になろうとする人の取る態度でしょうか。

見るに見かねて、三河屋という商人がお金を出して荼毘にしたそうです。この人は増上寺に出入りしていたものの、立場的にはほぼ中立だったので許可が出たのでしょう。

それでも表立って供養することはできず、改めて政府から供養の許可が出たのは明治七年(1874年)のことでした。
現在上野公園の中にある彰義隊のお墓は、こうした紆余曲折を経て建てられたものなんですね。

上野というと美術館や博物館、動物園が思い浮かぶ人が多いと思いますが、たまにはこうした史跡にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

上野にある彰義隊の墓/wikipediaより引用




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長月 七紀・記
参考:上野戦争/wikipedia 彰義隊/wikipedia

 




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