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その日、歴史が動いた 伊達家

伊達政宗の2大イベント「摺上原の戦い」と「小田原参陣」は両方6月5日に起きていた

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たまたま手に入ったラッキーも嬉しいですけど、やはりコツコツ努力してやっと目標や欲しいものに手が届いたときの達成感はひとしおですよね。

出世であったり値段の張る趣味用品だったり、はたまた宝くじの当選だったり人によっていろいろあると思いますが、もしそれが丸1年で失われてしまったら……喜んだとき以上に落ち込んでしまう方は少なくないでしょう。
しかし、それをものともしないどころか逆に「やってやんよ!」な気分になった戦国武将がいました。
我らが戦国のネタ王……ゲフンゲフン、伊達政宗公です。

実は旧暦の6月5日は、政宗にとって二つの大きなイベントがあった日でした。

一つは天正十七年(1589年)、摺上原の戦い。
もう一つはその翌年・天正十八年(1590年)の小田原参陣です。
これだけ近接した出来事ですので、もちろん密接に関わっています。
では一つずつ見て行きましょう。

 

摺上原の戦いと小田原参陣は1年後の同じ日だったんだぁ

まず摺上原の戦いとは、福島県・磐梯山の裾に広がる平原での戦です。
戦ったのは政宗以下伊達家と、会津の名門・蘆名家でした。一対一だとわかりやすくていいですね。
が、ここに至るまでの経緯はなかなか複雑なものがあります。

政宗は18歳のときに家督を継ぎ、父・輝宗以上の積極的攻勢を取りました。
が、この過程で撫で斬りなど周辺諸国の恐怖と怒りを買ってしまい、畠山義継という大名に父親を連れ去られてしまいます。
両家の境界線まで追いすがった政宗でしたが、輝宗を救うことはできず、義継諸共射殺せざるをえませんでした。
(※輝宗の死に方には諸説ありますが、ここでは大河でも取り上げられているほうにしておきます)

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当時の福島県では父がころされまくっていた

父を殺すことになってしまった政宗は、その原因となった畠山家を当然憎みます。が、父親を殺されたのは畠山家の幼い跡継ぎ・国王丸も同じでした。
これに「政宗ムカツク」な諸大名がくっつき、人取橋というところで伊達家vs畠山家・蘆名家含むその他東北大名+佐竹家の戦が起きました。
諸々の要素が重なって奇跡的に伊達家が勝ったものの、波乱はここでは収まらず、蘆名家とのリベンジマッチになったというわけです。
蘆名家の跡継ぎ問題も絡んでおり、なかなか背景事情が複雑なんですがここでは割愛しますね。

戦の結果としては、犠牲を払いつつも伊達家が勝って蘆名家を滅ぼしました。
蘆名家が治めていた会津一帯は政宗の領地となり、奥州と呼ばれていた現在の東北地方のほとんどは伊達家の傘下になったのです。
某ゲームの”奥州筆頭”は多分この辺のイメージなんでしょうね。

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豊臣秀吉の戦争禁止令に違反していた

が、上方からするとこれは大問題でした。
何でかというと、既に秀吉が関白になっており、「勝手にドンパチをやらないように!」という命令(惣無事令)が出ていたからです。
政宗も一応知ってたんですがガン無視してました。タダで従うような人でもないですしね。

そして年内は蘆名家の残党平定などでバタバタしていたのですが、年が明けてから状況が一変します。
秀吉が小田原の北条家を討つべく、関東へやってきたのです。
上方に比べれば、関東と東北は目と鼻の先も同じ距離。

参陣というより小田原に出頭命令

伊達家の家臣たちは「すぐ行って詫びを入れたほうがいいんじゃないですか?一応関白だし」とする温厚派と、「素性の知れないサルなんぞに頭下げられるか!家が滅びても断固戦うべき!!」という抗戦派に分かれました。

このとき、伊達家の将来を案じた政宗の母・義姫(保春院)が政宗に毒を盛ったとか盛らなかったとか、弟・小次郎を斬ったの斬らないの話もありますがめんど……謎が多いのでカットで。
この人の一生はネt……大イベントが多すぎて、割愛しないと話が進まないんですご勘弁くださいm(_ _)m
すったもんだの末、政宗は秀吉へあいさつに行くことを選びました。
この後の行動を考えると、降伏しに行ったというより「今だけちょっと頭下げといて、そのうちまたケンカふっかけてやろう」くらいの考えだったんじゃないかという感じがふつふつとしますが、それでこそ政宗ですね。

とはいえ既に小田原城の包囲が済み、支城(本拠の補助的な立ち位置の城)へも攻め手が向かっていたタイミングだったので、これ以上はないほどギリギリでしたが。
ですが政宗はビクビクせず、むしろ横柄とも取れるような態度で「冥土の手土産に、千利休殿の手ほどきを受けたい」と言ったりして秀吉の歓心を買ったといわれています。
そして丸腰・白装束といういわば”まな板の上の鯉”状態で秀吉に謁見し、(口では)お詫びをして何とか攻め潰されることを防ぎました。
実際には兵をロクに率いていないので”参陣”よりは”参上”のほうが近いんですが、慣習的にこの出来事を小田原参陣と呼んでいるようです。

たった1年で会津とバイバイ

こうして政宗の首は繋がりましたが、やはり法令違反には違いないのでタダでは済みません。
摺上原の戦いなど、東北諸大名と戦ってやっとの思いで手に入れた領地を、たったの1年でまるっと取り上げられてしまったのです。
しかし政宗はここでも表向きは逆らわず、黙って元の領地・米沢城とその周辺へ引っ込みました。
その後の行動を考えると心服してたとはお世辞にも言えないんですけどねHAHAHA!

そのあたりの”行動”についてはまたいずれ。
どれもこれも家臣達からするとハラハラさせられっぱなしだっただろうな、と思うようなことばかりなのですが、この綱渡り感こそまさに戦国武将らしいというか、政宗が人気な理由なんでしょうねえ。
後世から見てる分にはものすごく面白いですし。

長月七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/摺上原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐

 





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