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その日、歴史が動いた 伊達家

伊達秀宗(=伊達政宗の長男)の少し切なくてイイ話し~切られた家臣のことは横に置いて

更新日:

「親の心子知らず」とよく言われますが、その逆もまた然り。
現代の一般庶民でもそうなのですから、もっと昔でなおかつ親子が同居していることがほとんどなかったような時代・身分の人達はなおさらでした。

秀吉が「妻と子供をワシの手元に差し出さんかい!」という方針を固めてしまってからは特にそうです。
ということは、戦国時代後半以降に生きていた大名のほとんどは、母親はともかく父親とはロクに顔を合わせずに育っているということになりますよね。
そのまま形式上の付き合いになったり、派手に仲違いしたりすることもありましたが、一昔前の番長同士のケンカよろしくぶつかり合い、関係が良くなった親子もいました。
本日はそんな江戸時代のホームドラマ?のお話です。

 

政宗の息子だけにやんちゃすぎた息子

宇和島市はココ(宇和島市観光協会HPより)

明暦四年(1658年)の6月7日、宇和島藩主の伊達秀宗が亡くなりました。

名字からわかる通り、伊達政宗の息子(長庶子)です。
どこの家でも同じ話なのですが、この長男かつ側室生まれという立場は実に難しいもの。
ヘタに野心を持ったり家臣に持ち上げられれば即座に成敗されてしまいますし、かといって黙っているにはプライドが許しません。

しかもこの人の場合、生まれたのが天正十九年(1591年)ということで並々ならぬ苦労をしています。
例によって判官びいきの血が騒いできましたので、さっそく生涯を見ていきましょう。

父・政宗には、長いこと子供が生まれませんでした。
正室愛姫(めごひめ)との婚姻は早かったものの、戦やらなんやらで留守が多かったからだと思われます。あんまり詳しく考察するとR18がついちゃうのでやめておきましょうね。
そこに側室とはいえ男の子が生まれたのですから、喜びようはハンパではありませんでした。家臣達からも「御曹司様」と呼ばれ、後継者間違いナシと見られていたのです。

 

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秀吉のむちゃぶり「4歳の息子に伊達家譲れ」

が、当時は秀吉が耄碌(もうろく)し始めた頃。
真実は未だ不明ですが、秀次切腹事件など軽挙妄動が目立ってきたあたりです。
政宗も「秀次がそこそこ付き合いがあったから」というとばっちりで「政宗は隠居して秀宗(※当時4歳)に家督を譲れ!」なんてムチャ振りをされていました。
流石に鎌倉時代以来の名家を幼児に継がせるのはどうよ?ということで、家康が間に入って何とかしてくれたのですが、このあたりから秀宗の人生にいろいろケチがついてまわります。

まずは「秀頼と歳の近い小姓が欲しいから、秀宗を上方へよこせ」というもっともらしい理由で人質になってしまいました。
このときわずか5歳で元服し、”秀”の字を秀吉からもらっています。無茶苦茶にも程があんだろ。

秀吉が死んだら死んだで関が原の折にも大坂で人質にされ、関が原の後は江戸で人質になり……と、秀宗は幼少期のほとんどを人質としてあっちこっちで不快な思いをしながら耐えました。
他の大名も似たようなものですが、この後の経緯を考えると秀宗の場合はことさら哀れに思えてきます。

 

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本妻に弟うまれちゃって…

何でかというと、ここにきて愛姫に男の子が生まれたからです。秀宗からすれば腹違いの弟であり、世間的には正式な後継者ということになります。
秀宗も井伊直政の娘を正室にもらっているので、いきなり冷遇されたわけではないんですが。
しかしこの腹違いの弟が元服の際、秀忠の”忠”の字をもらって忠宗と名乗ったことで、秀宗が家督を継ぐ可能性は消えてしまいました。”秀”に秀吉の影を感じ、恨みに思ったかもしれません。

当コーナーでは散々ネタの塊扱いしている政宗ですが、流石に長男の不満に全く気付かないようなバカ親ではありませんでした。
「アイツにもいろいろ苦労させたし、何とかしてやらんとなー」ということで、秀宗の顔が立つ方法を考えはじめます。とはいえすぐにいい手は浮かばず、ビミョーな空気の中親子揃って大坂冬の陣に参戦しました。
これは余談ですけども、秀宗は政宗の子供の中では唯一実戦経験があるということになります。他に落胤で大坂夏の陣に参加した人もいるんですが、まあそれは置いといて先行きましょう。

 

もらった新領地 それが愛媛県の宇和島市

伊達軍は冬の陣では特筆すべき功績を挙げていないのですが、お歳暮代わりにいくらか領地をもらえることになりました。
ここでピンと来た政宗、「戴いた土地のうち、伊予宇和島(現・愛媛県宇和島市)を息子にやりたいんですが」と秀忠に申し出ました。これに許可が下り、さらに秀忠から「秀宗は真面目だからオマケしてやろう」ということで、分家扱いではなく大名扱いにしてくれます。
親心か世間体からか、政宗も「なら頼れる家臣をつけてやらんとな」と張り切り、選りすぐった人物とさらにお世話係や兵卒合わせて1200人をつけ、長男を送り出してやりました。

宇和島市の空撮(宇和島市観光協会HPより)

 

カリスマ父から離れて自由になったのにウザイお目付け役が

が、この家臣団が火種になってお家騒動が起きてしまいます。
普通こういう時って後継者問題から発展することが多いんですが、このときは家臣vs家臣の対立で主君の家に火がつくという誰得な展開でした。なんと父親が付けたお目付け役の重臣を殺してしまったのです。
しかも大名になったばかりの秀宗、報告・連絡・相談のいわゆる”ほうれんそう”があまりよくわかっていなかったのか無視したのか、死人が出てるのに幕府にも父親にもこれを知らせませんでした。
当然激怒した政宗、ブチキレて「あいつもう勘当しますんで、領地を取り上げていただいて結構です!!」と幕府に申し入れてしまいます。ちょっと落ち着きなよトーチャン。

が、ここで運よく仲裁が入りました。ときの老中・土井利勝です。
「まあまあ二人とも落ち着きなさいよ。言いたいこと溜まってるからこうなったんでしょ?一回顔を合わせて話せばわかるって」(※イメージです)と諭された親子は頭を冷やし、助言通りに直接話し合うことにしました。

 

息子の怒り爆発! それを受け止める父・政宗 いい話や

そして秀宗は、これまで父に抱いていた不満を全部ぶちまけます。ずっと人質生活に耐えてきたのに家督を継がせてもらえなかったこと、独立したのに家臣の一部が政宗の言いなりで秀宗にケチをつけてくることなど、「はっきり言って恨んでます」と伝えたのです。
ドラマだったらここで刃傷沙汰になってもおかしくなさそうな展開ですが、そこは秀吉や家康の嫌がらせをやり過ごしてきた(ただしたまに悪戯はした)政宗ですから、子供に不満をぶつけられたからといってキレることはありませんでした。
「そりゃそうだよな。トーチャンも悪かったよ(´・ω・`)」(※イメージです)ということで、この親子ゲンカは無事丸く収まります。めでたしめでたし。
その後スッキリした秀宗は藩政に力を注ぎ、名君と称えられるようになりました。
幕末の宇和島藩主たちがより有能だったため、現代では地元でもあまり尊敬されているとはいえないようですが、政宗譲りの肝の据わりようや年貢制度の整備などの働き振りが伝えられています。

政宗とは、以前よりも率直な手紙をやり取りできるようになったようです。
特に和歌に関するものが多く、「和歌はある程度早く詠めないと、人前で恥をかくぞ」とか「この前の歌は良かった。ここをこうしたらもっと良くなるぞ」とか、和やかな雰囲気が漂っています。
とはいえやはり支藩・分家扱いは本意ではなかったらしく、政宗死後・忠宗の代には「家光の御前に出るとき、忠宗の上座に座った」なんてエピソードも残ってたりするんですが。
これが原因でトラブルになった記録もないので、多分忠宗も「兄上はいろいろあったから仕方ない」と思っていたんでしょうね。忠宗は忠宗で父親が隠居しないまま危篤になっちゃってハラハラしたり、人事じゃないくらい苦労してますが。いい人や。

 

愛媛の郷土料理「じゃこ天」に秘められた親子の思い

ところで愛媛県には「じゃこ天」という郷土料理がありまして。
魚の頭と内臓を取り、皮・骨ごとすり潰して形を整え、油で揚げたものです。
日本各地にあるのですが、愛媛のそれは「初代藩主・秀宗が仙台を偲んで作らせた」といわれています。ちなみに笹かまとの関係はなさそうです。
上記の通り秀宗の前半生はほとんど人質でしたし、それが終わって間もなく宇和島に来ていますので、仙台に行ったことがあるかどうかはアヤシイ=こじつけの予感大ですが。
でも、そういうこじつけができるということは、秀宗が父親に似て料理好きだったか、食にある程度うるさかったかのどっちかあるいは両方だった可能性がありますよね。
そして少なくとも、存命中は領民から慕われていたのではないでしょうか。

上記の上座云々の件といい、この辺を見ると「やっぱり似たもの親子じゃんw」と微笑ましい気分になります。
もっと早く腹を割って話せていれば、また違った関係になっていたんでしょうねえ。
じゃこ天は地元以外でも、新橋にある愛媛・香川のアンテナショップで食べられるそうなので、お近くの方はお試しになるのもいいかもしれません。
私もそのうち行ってみたいと思います。あーでも鯛めし(こっちも宇和島名物)と迷いますねじゅるるるるる。
オチにきて突然の飯テロすみませんテヘペロ。そして愛媛県・香川県から袖の下はいただいておりませんのでご安心ください。

長月七紀・記

参考:

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http://ja.wikipedia.org/wiki/伊達秀宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/じゃこ天
http://www.setouchi-shunsaikan.com/contents/index.html

 





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