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摂政裕仁親王(後の昭和天皇)とともに/wikipediaより引用

女性 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

貞明皇后とは? 日本の皇室・歴史を支えた皇后たちの功績にご注目

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ささいなことであっても、長く続いてきた習慣を変えるのは大変ですよね。たった一つ仕事のプロセスを変えるだけでも「今までこうだったから」と言われてその場で却下されるなんてことは珍しくありません。

法律や税制など、国家に関わることであれば尚更。ましてそれが皇室に関わることとなると、日本屈指の難関事項といっても過言ではないでしょう。

が、実は明治時代から現在にかけて意外なほど多くの変更が行われてきています。
そしてその立役者となったのは、歴代の天皇にとって欠かせないあの方々でした。

明治十七年(1884年)の6月25日、貞明皇后が誕生しました。大正天皇の奥様ですね。

少しずつ身分制度が改められてきた時代とはいえ、まだまだ「皇后になれる家柄」という概念は強く存在していました。貞明皇后も藤原北家(道長んち)の子孫である九条家の出身です。元のお名前は九条節子さんですが、例によって”貞明皇后”で統一させていただきます。

貞明皇后/wikipediaより引用

 

津田梅子などの帰国子女たちに師事

貞明皇后はその身分の高さとは裏腹に、幼い頃農家で生活していました。

この頃皇族や華族(貴族)の間で「子供を自然の中で育てたほうが丈夫になっていいんじゃないか?」という考え方が流行っており、農家へ里子に出されていたのです。
その結果「黒姫様」と呼ばれるほど外での遊びを好み、日焼けして育った貞明皇后は、活発・健康的な女性に成長していきます。

5歳の頃実家の九条家に戻り、女子学習院(学習院女子大学の前身)に入学しました。闊達だからといって勉強をおろそかにすることもなく、津田梅子など帰国子女たちに師事して国際感覚も身につけていきます。

一方その頃、大正天皇(このときは皇太子嘉仁親王)のお側の人々はお妃候補を探していました。

大正天皇は生まれつき体が弱く、さらにお父上である明治天皇と接する機会も少なく、歳の近いご兄弟はほとんど亡くなられていたため、寂しさからくるストレスで心身ともにあまり丈夫とはいえない状態でした。

そのため「妃を迎えれば、気分も明るくなり体が良くなるのでは?」ということで、十代のうちに結婚したほうが良いだろうという話になっていたのです。

そこで白羽の矢が立ったのが、超がつくほどの健康体であり、身分や見識も申し分ない貞明皇后でした。

摂政裕仁親王(後の昭和天皇)とともに/wikipediaより引用

 

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結婚によって大正天皇も健康的になり子宝にも

周囲の予想通り、結婚によっていつも親しく話せる相手ができた大正天皇は健康的になり、子宝にも恵まれます。

かつては体調不良のために留年したり、学習院への通学を断念したほどだったのが、全国への行啓(ぎょうけい。天皇以外の皇族が出かけること)を始め、長時間の外出にも耐えられるほどになったというのですから、まさに「病は気から」という面が大きかったのでしょう。

”病弱な夫と健康な妻”というといかにも軋轢が生まれそうですが、貞明皇后は自ら大正天皇の身の回りの世話をしたり、実質的に天皇家で初めて一夫一婦制を確立したりと、極めて良好な関係でした。

大正天皇が47歳で亡くなられた後、貞明皇后は一日二回遺影の前で過ごす時間を欠かさなかったといいますから、本当に心の通い合ったご夫婦だったのでしょうね。

 

公共の福祉にチカラを入れた昭憲皇太后

さて、貞明皇后をはじめ、明治時代から現在まで”皇后”の成し遂げた改革は多岐にわたります。

歴史の授業ではやはり天皇と政治家・軍に比重が置かれがちですが、「国母」とされることもある皇后の役割もそれに勝るとも劣らない大きなものでした。もちろん現在もです。

お一人ずつ、どんなことをやってこられたのかカンタンにご紹介していきましょう。

まずは、明治天皇の奥様である昭憲皇太后です。
以前明治天皇の記事で「天狗さん」と呼ばれていたことをお話しましたが、当時の人にしては珍しいほど鼻筋が通っておられたためにつけられたあだ名でした。

昭憲皇太后/Wikipediaより引用

和装・洋装を完璧に着こなすばかりでなく、「これから女性がどうあるべきか」という模範を示しています。
明治政府の中には、「江戸時代大奥がかなりの権力を持っていたように、皇后とその側近である女性達や実家が政治に口を出してくるのではないか」と考える人もいたからです。

しかし昭憲皇太后は直接政治に関わることを避け、皇族・一般人含めた女子教育制度を始めたり、日本赤十字社の設立など、公共の福祉を主導することに力を注いでいます。
日本赤十字社の名誉総裁に歴代の皇后が就くことになっているのは、昭憲皇太后が設立に積極的だったからです。
現在皇族の方々が各種福祉団体や教育団体の名誉職についているのも、この流れによるものでしょう。

 

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結婚については本人の意向を重視した香淳皇后

次は昭和天皇の奥様・香淳皇后についてです。今上陛下のお母上でもありますね。

昭和年間自体が激動の時代ですから、明治時代に勝るとも劣らない(こういう言い方もアレですが)ご苦労があったことでしょう。
戦中・戦後は常に昭和天皇の意向に沿って行動されていますし、戦後にお子様である今上陛下や親王・内親王方の結婚については、本人の意向を重視するためお見合いやデートを勧めていました。

一般人からすると何でもないことのようですが、やはりお立場がお立場な方々ですので、これはかなり大きな改革といえるでしょう。
ただ、さすがに「テニスコートの出会い」は想定の範囲外だったようで、ひと悶着どころじゃないアレコレがあったようですけども。香淳皇后は皇族の出身だったので仕方ない話ではあります。

嫁姑関係について、香淳皇后はどちらの立場のときもお悩みだったようですね。

香淳皇后/wikipediaより引用

 

皇室に一家団欒を導入した皇后陛下

さて、現在の皇后陛下についてはもう言うまでもないというか、あの穏やかな笑顔だけで説明がつく気もしますが、手抜きをするわけにもいかないのでほんの少しだけお話しましょう。

皇后陛下がこれまで行ってこられたことの中で最も”改革”というべきことは、御自ら料理やお弁当作りをされたことです。

これまた一般人からすると「どこがすごいの?」という話かもしれませんが、皇族の方々というのは幼少期から肉親の手料理ではなく厨房で作られるもので育っていますので、「手料理」というものをほとんど口にされたことがなかったのです。

今上陛下がまだ幼かったころ、香淳皇后が好物の豆腐料理を作ったものの、実際に召し上がれる機会はなかったといわれているほどです。どこの国でも身分の高い方は大変だ、という話をたびたびしてきましたが、親子で食卓を囲めないというのは皆さんお寂しかったでしょうね……。
※皇室の厨房担当・大膳課をディスっているわけではないので悪しからずご了承ください

これによって皇室にも「一家団欒」という概念が根付き始め、それは三人のお子様方や各宮家にも波及したと見ていいでしょう。

明治以前と以降で日本は大きく変わりましたが、このように皇室の内側も同じくらい変化していたんですね。

”内助の功”とはちょっと違うかもしれませんけども、こうした視点から歴史を見てみるのもなかなか面白いものです。

長月 七紀・記




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【参考】
貞明皇后/wikipedia

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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