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その日、歴史が動いた 諸家

日和見の代名詞 「洞ヶ峠」で濡れ衣の筒井順慶さん

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一度ニュースで大々的に取り上げられてしまうと、例えそれがウソ八百の類であってもなかなか真実が伝わらないものです。(とりあえず地味にリンクだけ)
これだけ情報技術が発達した現代ですらそうなのですから、そんなものがなかった時代はいわずもがな。特に慣用句や形容詞としてイメージが固定化されてしまったら万事休すです。

本日はその中のひとつ、実は濡れ衣といってもいい汚名を着せられた人のお話をしましょう。

筒井順慶という名前よりも洞ヶ峠のほうが有名な武将

天正十二年(1584年)の8月11日、筒井順慶が亡くなりました。
「誰それ」「聞いたことあるようなないような……」という人が多そうですね。
ヒントは「洞ヶ峠(ほらがとりで)」です。半分以上正解言ってるようなもんですが、他に有名なエピソードがないから仕方がない。
明智光秀VS中国から大返ししてきた羽柴秀吉の「山崎の戦いを洞ヶ峠から傍観していた」という悪評がついているこの人、そんなにぼんやりしていたのかと思えばそうでもありません。むしろ波乱万丈です。

まず、2歳のときに父を亡くして家督を継いでいます。スタート地点から人生ハードモード過ぎです。
しかも当時順慶の地元・大和(大体今の奈良県)は、後々爆死大名として名を残すことになる松永久秀の全盛期。筒井家は久秀と折り合い悪く、それでいて親しい大名が久秀に屈してしまったため、四面楚歌の状態でした。
さらには頼みにしていた叔父の純政が順慶18歳のときに亡くなってしまい、その隙を狙って久秀が攻め込んできて、順慶は居城・筒井城を追い出されてしまいます。
これを見て「だめだこりゃ」と見限り出て行った家臣もいました。涙目ってレベルじゃねーぞ!

しかし、順慶には妙な神様仏様のご加護があったらしく、このときは親戚の城に逃げ込んで助かります。
そして裏切り者の城を攻め、近所の三好家の家臣・通称三好三人衆と協力して居城奪還を計りました。
三人衆は久秀に直接当たり、順慶は久秀方の陣を焼いてついに居城奪還を果たします。
城を取り戻した直後に春日大社に詣でたといいますから、信仰心が厚いほうだったのでしょうね。

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奈良出身ながら信長に従い活躍

こうしたドンパチの間に、尾張では信長が台頭してきていました。まだ最後の将軍・足利義昭を担ぎ上げていた時期です。
目ざとい久秀、「ここでアイツに取り入っとけば順慶をギャフンと言わせられるな」と思って信長に近付きました。そして織田家の後ろ盾を得て、再び順慶と刃を交えます。粘り強さはあっても情報戦には……な順慶、またしても城を追い出されてしまいました。が、この頃にはこれまでの苦労もあって、即座に手立てを講じています。

地元民からの評判は上々だったようで、経済的支援を受けることができたようです。日頃の行いってホント大事ですね。
大勝利を収めることこそありませんでしたが、最終的には久秀方から城を取り戻すことができました。

その後、明智光秀と佐久間信盛を通じて正式に信長から領地を認めてもらいます。
同時期に信長は義昭と対立、武田信玄などによる包囲網をしかれていたため、近畿地方で味方が増えるのは悪くないと思っていたのでしょう。
この頃には順慶も「信長殿につくことが生き残る道」という考えになっていたようで、一向一揆や長篠の戦いにも積極的に参加しています。また、母と家臣を人質に出していました。

子供を出さずに済んでいるところが気になりますけれど、これは信長の優しさなのかテキトーだったのかどっちなんでしょうね。

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因縁の松永久秀の裏切りにはもちろん先鋒でGO

その二年後、因縁の相手・久秀が信長に対し三度目の裏切りをしたときにはすっかり信用されており、先鋒を務めています。久秀は爆死で自害したため直接首を打つことはできませんでしたが、スッキリしたかもしれませんね。
「本拠以外の城は壊せよ」という信長の命令にもあっさり従っていますし、恐らくは織田家の部将として働くつもりだったのでしょう。

本能寺の変勃発!奥さん同士が姉妹の光秀からのお手紙

が、そこでお馴染み本能寺の変がおき、また人生の岐路に立つことになります。
光秀には織田家に口利きをしたもらった恩がありますし、日頃から教養を通じて親しい仲でした。さらに、光秀の奥さんと順慶の奥さんは姉妹だったともいわれています。
当然のことながら「私に味方してくれますよね^^」という誘いが届きました。

しかし、いかに戦国時代とはいえ光秀は主君を討った謀反者です。
由緒正しい武家の一員である順慶としては、日頃のつきあいがあるとはいえ気が進みませんでした。そのため一度は兵を挙げたものの、考え直して引き返しています。

洞ヶ峠で待っていたのは順慶ではなく光秀だった

一方その頃、光秀は順慶や戦国のチート・細川幽斎をはじめとした「味方になってくれそうな人」からの援軍が来ないことに歯噛みしながら、洞ヶ峠に布陣していました。
そう、洞ヶ峠にいたのは順慶ではなく光秀で、諸将の動向をうかがっていたのもまた光秀。順慶は洞ヶ峠にはいなかったのです。
「順慶”を”待っていた光秀」のはずが、いつの間にか「順慶”が”戦の決着を待っていた」という話にすり替えられた、もしくは歪曲して伝わったという実にイヤな話でした。

山崎の戦いは皆さんご存知の通り1日でケリがついてしまったのですが、順慶はその後数日間動向を見計らい、秀吉の下に出向くのが遅れたためこっぴどく叱られています。
これが原因で順慶が体調を崩したという説もありますが、清洲会議には出席しているようなので多分この時点では顔色が悪くなった程度でしょう。所領も認めてもらっていますし。

秀吉にこき使われて36歳の若さで…

が、二年後の小牧・長久手の戦いの頃にはすっかり病身になっていたようです。胃痛を訴えていたといいますから、たびたび秀吉からのプレッシャーを受けていたのでしょう。
久秀とやりあっておいて秀吉が怖いか?とも思いますけれど、久秀とは戦で対峙していただけマシだったのかもしれません。
秀吉って結構精神的な攻撃をしますからね……。「人たらし」だった分、人の傷つけ方も熟知していたっぽい節があります。
「洞ヶ峠」も、もしかしたら秀吉が冗談交じりにほざいたのが発祥だったりして。

命令もあって無理して小牧・長久手に出向き、さらに伊勢・美濃の戦にも参加した順慶は、居城に帰れたはいいものの、とうとう力尽きてしまいます。まだ36歳、「人生五十年」の時代とはいえ早すぎる死でした。
死因は胃がんとか胃潰瘍とかいわれていますが、はっきりしていません。
とりあえず秀吉は人使い荒すぎ。

 

長月 七紀・記

 

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2013/08/811-74b5.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E3%83%B6%E5%B3%A0





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