日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

その日、歴史が動いた 諸家 関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いで何かと戦局を変えた三成の右腕・島左近 本当に死んだのか!?

更新日:

 

三成に過ぎたるもの・・・

さあ、いよいよ9月15日でございます。この日に関が原の戦いの話をしないわけには参りません。今年は前哨戦その他で東軍の話ばかりでしたので、当日は西軍のお話を致しましょう。

関ヶ原の戦い

関ヶ原合戦図屏風/Wikipediaより引用

慶長五年(1600年)の9月15日、関が原の戦いで石田三成の腹心・島左近が行方不明になりました。
”左近”は通称であって本名は”清興”(きよおき)なのですが、例によって有名なほうで統一しますね。

この人、そもそも出自自体に不明なところも多く、わかっていることのほうが少ないくらいなのですが、この日関が原で一隊を任されていたことは確実です。
一説には「三成がまださほど領地をもらっていなかった頃、”領地を半分やるから俺のところに来い”とまで言って召抱えた」とされるほど信頼・重用されていた人物でした。嘘くさい話ですが、美談に現実味を求めるのは野暮というものですから、例え話ということでここはひとつ。

左近もその厚遇に応えてよく働き、関が原前日の杭瀬川の戦いでも奇襲作戦を建言して大勝利を収め、西軍の士気を大いに上げました。
本戦では関が原の北端、三成がいる本陣の目の前を守るように布陣していて、信頼のほどが伺えます。当初西軍有利だったのも、前日の大勝利で士気を上げていたことに加え、左近自ら前線で戦っていたことが大きいでしょう。

しかし! これが仇になってしまいます。

 

スポンサーリンク

 兜が目立ちすぎて狙われた可能性もあるよね

左近に対するは、最前線にいる東軍の中では一番の兵数を率いる黒田長政でした。

そして左近は横腹から黒田隊の射撃を食らってしまい、ここから西軍の雲行きが少しずつ怪しくなっていきます。

確実に左近所用とされる鎧兜の類は現存していませんが、五奉行の一人である三成の腹心ですから、雑兵よりもかなり立派なものを身につけていたことは間違いありませんし、悪く言えば格好の的だったでしょうね……。

頼れる前衛がいなくなった三成は戦力半減もいいところ。

もちろん彼の隊にも勇士はいましたが、多勢に無勢。さらに旗色が悪くなったことを知った小早川秀秋らが裏切り、西軍は壊滅してしまったのでした。

 

スポンサーリンク

まさか余生をノンビリ過ごしたとか・・・? 

さて、その後の左近の行動については大きく分けて三つの説があります。

一つは、上記の黒田隊銃撃時に死亡したというもの。一番シンプルですね。どんなに優秀な隊でもトップがいなくなれば総崩れになることは珍しくありませんから、三成隊が押されていったのもわかります。

二つめは、銃撃による負傷のため一時撤退し、小早川秀秋とムカつく仲間達の裏切り後に玉砕覚悟で東軍へ突撃、討死したという説です。
このときの奮戦振りはまさに死に物狂いという言葉そのままだったようで、黒田隊所属だった兵たちは何年経っても左近の形相や「かかれーっ!!」という鬨の声を夢に見たとまでいわれています。

また、恐怖のあまり当時の左近の服装について、居合わせた人々の記憶が全く一致しなかったとか。普通ある程度身分ある人は旗なり鎧なり羽織なり、トレードマークになるようなものをみにつけているものですから、そうそう記憶が食い違うはずはなく、これもやはり左近の狂気じみた戦いぶりを伝えるエピソードとして知られています。

そして最後に、実は関が原から落ち延びて、静かな余生を送ったという話があります。
大阪夏の陣の真田幸村(信繁)のように、どちらかというと民衆の願望が説話になっているような気もしますが、あちこちに左近のものとされる墓が現存しているのです。
左近の首が現在に至るまで見つかっていないということも後押ししているでしょう。大谷吉継のも見つかっていませんが、彼の場合は関が原で切腹したことが確実ですからまた話が違いますしね。

 

「左近の首を返せ…」 という三成の幽霊が出る噂も 

左近の墓もしくは落ち延びた先と言われている場所は京都・静岡・熊本などさまざまで、没年についても共通点はないようです。

一番長生きした説では寛永九年(1632年)に京都で亡くなったとされていますが、永禄三年(1560年)生まれの三成より年上であったはずの左近が、そこまで長生きしたというのもちょっと考えにくいですよね。ありえない話ではないですけども。

そんなわけで、現在も左近の最期については謎のままということになっています。

多分「関が原には”左近の首を返せ”と言う石田三成っぽい幽霊が出る」というのも、この辺から出た話なのでしょう。三成は京都の六条河原で処刑されているので、関が原で死んだわけじゃないですし。

はっきりわかった暁には、ぜひ教えて供養してあげてほしいものですね。

 

長月 七紀・記

 

スポンサーリンク

参考:島左近/Wikipedia

 

 





わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 史実の真田幸村とは?


3位 長篠の戦い 注目すべきは…


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-その日、歴史が動いた, 諸家, 関ヶ原の戦い

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.