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画・富永商太

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その日、歴史が動いた 豊臣家 関ヶ原の戦い

関ヶ原負け組「石田三成・小西行長・安国寺恵瓊」の死に様とは? 男の価値は死の瞬間に決まる

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人間、切羽詰まったときにこそ本性が出るとか出ないとかいわれていますよね。
「墓場まで持って行く秘密」のように死ぬまで信念を貫き通す人もいれば、見苦しいまでに生へ執着する人もいます。前者は人間として、後者は生き物として間違ってはいないと思いますけども。

慶長五年(1600年)10月1日に斬首刑となった、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊(えけい)の三人にも、処刑直前のエピソードがいろいろ伝わっています。

彼らは”敗軍の将”ですから、さぞひどく扱われていたかと思えばそうでもありません。
三成だけは日頃から恨みを買ってしまっていたせいか、捕まって晒しものになっていたところに罵詈雑言を浴びせられたという話が残っていますけども、まあ日頃の行いがアレだったから仕方ない。
とはいえ、この三人生まれながらに身分が高かったわけではない割に、最期の様は見事なものです。いろんな意味で。

三成「上様はこの世に一人!!!」

画・富永商太

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まずは三成のフォローからいきましょうか。
家康は三人を捕らえたとき「一応皆大名なんだし、ボロい服のまま処刑するのは体面が悪いから(ワシが敵将をボロクソに扱ったみたいに言われるだろうし)、新しい着物をくれてやるように」と言ってその通りに手配したのですが、三成だけはこれをよしとしませんでした。
服を送られた事自体が気に障ったのではなく、使者が「上様からです」とのたまったのが気に食わなかったのです。
「上様っつったら秀頼様のことだろ! いつどこの誰が狸を上様なんて呼び始めたんだこの野郎!!」(超訳)というわけです。
……その上様や生母の意見を無視して戦をおっぱじめたのはどこの誰かとツッコミたくなりますが、三成だから仕方ない。

これだけだとフォローにならないのでもう二つ。
三成には、捕まった後も首を離れる直前まで再戦を諦めていなかったらしきエピソードがいくつかあります。
「家康の家臣・本田正純に『よくもまあ生き恥をさらしている事よwww』(超訳)とディスられたところ、『自害なんてケチくさい端武者のすることですけどwwwwwww』(超訳)と返した」とか、「処刑直前に水を欲しがったが、あいにく用意がなく、刑吏が『干し柿ならあるが、食べるか』と聞いたところ『痰の毒になるからいらん』と断った」とかですね。
自害の件は多分どこかで大谷吉継に睨まれてたと思いますけども、干し柿の話は三成の粘り強さが伺え、彼も”武将”だったのだなあという感がありますね。

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商売人小西行長はキリシタンとして天へ

次に小西行長の最期を紹介しましょう。
彼の実家は堺商人で、小さい頃岡山の商家へ養子入りし、戦国の暗殺マスターこと宇喜多直家に「お前デキそうだな」と気に入られて武士になりました。取り立てた人は違いますが、三成と同じような経緯をたどってきているんですね。
国内の武将としては優秀なほうではありませんでしたが、朝鮮の役では活躍しています。和平交渉に失敗して打首になりかけてはいるものの(それだけで充分大事ですが)、前田利家や淀殿が助命を嘆願したそうですから、常日頃から評判の良い人ではあったのでしょう。

さて、彼は商人出身という他にキリシタン大名であったという意味でも特異な存在でした。
処刑直前にも、仏典を置かれる事を拒否し、イエス・キリストとマリアのイコン(聖書の重要なシーンを描いた絵)を代わりに拝んでいたといいます。
本当は死ぬ前の懺悔もしたかったようですが、同じキリシタン大名の一人だった黒田長政に頼んで断られてしまったため、諦めざるを得ませんでした。
彼もまた、最期の最期まで自らの考えを貫いたと見る事ができます。

行長が妻と子どもたちに宛てた遺言状には、「今後は汝らはすべての熱意と心の緊張をもってデウスに仕えるよう心掛けて頂きたい。なぜならこの世においては、世の中のすべてのものが変わりやすく、なに一つとして永続するものはみられぬからである」とありました。(1600年度カリヴァーリュ日本年報補遺、『報告集』1)

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僧侶の安国寺恵瓊はこの世が好き

三人めの安国寺恵瓊は名前からわかる通り僧侶なのですが、実に後味の悪い逸話というか伝説?が残っています。
この人は毛利家で外交に関する事を任されており、有能な人物として頼りにされていました。が、平然と戦で人をコロすわ酒は飲みまくるわ吉川広家(吉川元春の息子)と仲違いするわで、絵に描いたような生臭坊主でもありました。比叡山に入ってればよかったのに(皮肉)

当時から胡散臭い・アヤシイと思われていたようで、関が原の後は「逃亡に疲れた家臣が『囚われの恥をさらすより、俺らで手にかけたほうが』と思いつめて恵瓊に切りかかったが、恵瓊が首を縮めて逃げ回ったのでうまく行かなかった」と言われています。
現実的に考えれば、肩をすくめて首に刀が当たりづらいようにしたのでしょうけども、皆さん一瞬亀のような状態を想像してしまったのではないでしょうか。私もです。
ものすごく乱暴にまとめると「仏門に入った人間が一番往生際が悪かった」という実にイヤな話なのですが、現実ってそんなもんですかね。
長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/石田三成
http://ja.wikipedia.org/wiki/小西行長
http://ja.wikipedia.org/wiki/安国寺恵瓊





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