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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

吉田松陰が友人との約束を守るために脱藩!? 天下のキテレツ天才思想家、処刑される

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世の中には「デキるはずなのに残念な人」というタイプがいますよね。学歴はスゴイのに社会的な常識がないとか、イケメン・美女なのに行動がアレだとかまあいろいろあります。
現代であれば「こいつバロスwww」で済みますけども、時と場合と立場によっては身を滅ぼすことが無きにしも非ず。

安政六年(1859年)10月27日に処刑された吉田松陰もその一人でしょう。

幕末一の強烈キャラはこの方かも・・・/Wikipediaより引用

幕末一の強烈キャラはこの方かも・・・/Wikipediaより引用

 

大国だったハズの清がイギリスにボッコボコ~なアヘン戦争

彼は文政十三年(1830年)に萩藩士の家に生まれました。次男だったので一度養子に出ているのですが、養父があっさり亡くなってしまったため実家へ戻っています。

しかし戻ったところで、ただの藩士はヒラ社員みたいなものですから、禄(給料)は少なくさほど裕福な家とはいえません。松陰は畑仕事をしながら和漢の書物や文学を勉強し、勉学に励みました。
それが実って、11歳の時には藩主へ御前講義をして認められました。当時の藩主が11歳の子供よりアホだったなんてことはありません。念のため。

そのまま順調に行けば日本流の兵学家の一人として終わっていたのでしょう。
しかし松陰がローティーン(古い)くらいの多感な時期に、お隣の大国・清がイギリスにぶっ潰されてしまうという大事件が起きました。皆さんご存知のアヘン戦争です。

「眠れる獅子」として知られていた清があっさり破れたことに驚いたのは、そう呼んでいたヨーロッパ勢だけでなく、日本や幕府も同じことでした。
幼い松陰もまた、アジアの雄の敗戦に危機感を覚えます。

「このまま東洋の学問だけをやっていても、いずれ国と共に滅びてしまうのでは……?」
そう考えた松陰は”思い立ったが吉日”とばかりに九州や江戸を回って洋学を学びました。

 

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友人との約束を守るためだけに脱藩って痺れる憧れるぅう

さらに東北へ旅行しようとするのですが、当時地元以外の藩へ行くには地元からの許可が必要。松陰も最初はそれをきちんと守ろうとして届出をしたのですが、いつまで待っても許可書は届きません。
日一日と迫る出発の日。イライラじりじりした松陰は思い切った行動に出ます。

なんと、友人との約束を守るためだけに脱藩してしまうのです。

幕末頃には脱藩してもほとんどお咎めなしという状態でしたが、脱藩というのは「臣下のクセに主を見捨てた」行為とみなされていましたので、普通の人ならそうそうやろうとは思わない行為です。
「それを『出発に間に合わないから』という理由でやってのける松陰先生、さすがおれたちにできないことをやってのけるッ! そこに痺れる憧れるゥ!!」

……という人々がやがて彼の門下に入り、倒幕の流れを作っていくわけですが、ここでは時系列を優先しましょう。

 

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松下村塾では高杉晋作や伊藤博文などと登山や水泳も!?

東北では鉱山や藩校、津軽海峡を渡る外国船などさまざまな角度から日本と外国について知ろうとします。ここでもまた、彼我の力の差について思うところがあったでしょうね。

そしてペリーやプチャーチンがやってくると、松陰は間近に見る西洋文明に再び衝撃を受け、ヨーロッパへ留学しようと思い立ちます。
プチャーチンやペリーの船にこっそり乗り込もうとしていますが、これは当然のことながら失敗しました。そして幕府へ自首して一度捕まります。

このとき既に「けしからん!死刑だ!」という声もあったのですが、当時の老中首座(幕閣のトップ)だった阿部正弘という人が口添えしてくれて助かりました。そして実家に幽閉という処分になります。

その二年後には叔父のやっていた塾の名を引き継いで、有名な”松下村塾”を作りました。
ここに後々明治維新の功績者となる高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋などが集い、松陰の教育を受けて思想を育てていくことになります。

彼の考えは「天下は民のものじゃなくて天皇のもの。だから天皇に正しく仕えて国を作らないといけない」(超訳)ということを主軸としたものでした。といっても「一方的に授業を受ける」というよりは「先生と討論する」ことが多かったようで、お互いの気心や思想をよく理解することができたでしょうね。
ちなみに、登山や水泳もやってたそうです。彼らの肖像画や写真からはちょっと想像つきませんねえ。

 

「老中を暗殺するつもりでした!」からの~「殺ってみやがれ!」

松下村塾を作ったのは安政四年(1857年)のことですから、処刑まで二年余り。その短期間にこれだけの人材を育てたということは、頭のキレや思想だけではなく、カリスマ的な魅力も持っていたのでしょうね。
伊藤博文あたりは、後々松陰の教えよりもビスマルクに傾倒している気がしますが。でなかったら「我々に歴史はない」とか言わないでしょうしゲフンゴホン。

「外国に学んで強い日本を作る」という方針は間違っていなかったのですけども、彼の場合は極端に振り切れた方向へ進んでいってしまいます。
松下村塾を作った翌年、幕府が朝廷の許可を得ずに開国を決めたことに対し松陰は大激怒。阿部正弘の死後、老中首座を引き継いでいた間部詮勝を暗殺しようと試みます。

そのときは弟子たちに止められて実行しませんでしたが、さらにその翌年に安政の大獄が起こると、「そういえば松陰とかいう危ないヤツがいたな。この際まとめて始末しておこう」と考えた井伊直弼によって処刑されてしまいました。
直弼は直弼で一度国内を取りまとめようとしてやったのでしょうから、どっちが100パーセント悪いとは言い切れないと思いますが。まぁ、これはどんな件でもそうですけどね。

そもそもこのときも松陰に肩入れしてくれた人がいたのに、松陰自らバカ正直に「老中を暗殺するつもりでした!!」と白状した上「殺れるもんなら殺ってみやがれ!」的な態度を取ってしまったのでもうしょうがないというか何というか。

井伊直弼/Wikipediaより引用

井伊直弼/Wikipediaより引用

 

白黒ハッキリさせないと気がすまないように見えまして

こうしてみると、行動力も知力もスゴイ人なんですが、熱意が先走りすぎて「成功させるためにどうすればいいか」を考えていないような気がします。

彼の教えには頷けるところもたくさんあるのですけども、白黒はっきりさせないと気が済まないどころか「世の中には白か黒しか存在しない」と言いたげなんですよね。

石田三成のフットワークがとんでもなく早くなったら吉田松陰になるんじゃないでしょうか。二人のファンの方、気分を害されたらすみません。

でも、松陰に大谷吉継的なポジションの人がついていてくれたら、もうちょっと長生きできたんじゃないかと思うのです。

弟子たちの個性を見抜いて教え方を変えたりしているので、人を見る目があったのは確かですしね。

いずれにせよ、享年29歳、もったいない死に方でした。

長月 七紀・記

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参考:吉田松陰/Wikipedia

 

 





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