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その日、歴史が動いた 中国

司馬遷は子供を残さず歴史書「史記」を残す 中国の大歴史家、その生涯

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多分このサイトをご覧の方なら一度は経験があると思うのですが、「歴史が好きだ」って言うと、だいたいの場合「真面目なんだね」みたいなことを言われますよね。
学者先生方はまあそうでしょうけども、一般の歴史ファンの場合「何コイツ(この事件)面白ぇwww」って感じでハマるケースのほうが多い気がします。
それは現代人だけではなかったようで。

紀元前80年の11月6日は、「史記」を書き記した司馬遷が亡くなったと言われている日です。

総計五十万字を超える超大作の歴史書ですが、全てが史実にそっているというわけではありません。それどころか、ほとんどの文章は出典不明とさえいわれています。歴史書なのにビックリ仰天な事実ですね。
しかし当時の状況と司馬遷の生涯を合わせて考えてみると、致し方ない話でもあります。

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彼は代々歴史や天文を学んでいる家に生まれました。シンプルに言えば学者一家ということですね。
そのため司馬遷も当然ながら学問の道に進み、また暮らしのため畑仕事や家畜の世話などもし、心身ともに健康に育っていきます。

そしてなぜか20歳ごろから、現在の中国の東側半分を一周するような大旅行を始めました。
旅程がわかっている割に目的や同行者の存在が不明という、後世の人間からすると全くもってイミフな旅です。お母さんのお墓参りをした後にあちこち回っていたようなので、勉強しているうちに現地へ行きたくなったとか見聞を深めるたとかそういう理由っぽいですが。

このときの旅も書物にまとめてくれていたら、玄奘三蔵法師の「大唐西域記」に匹敵する超大作旅行記になり、後世大いに役立ったと思うんですけども……残念なことに、彼は歴史以外のことを執筆しようとはしませんでした。ああもったいない。

そして旅から帰った後は漢王朝の公職に就き、安定した生活を始めます。
帰郷の後何年かしてお父さんが亡くなるのですが、今際の際に「お前は第二の孔子となり、先祖の志を継ぐのだ」(意訳)と言い渡されました。恐らくこれが史記の執筆を最初に考えたタイミングだったでしょう。

しかし政府の仕事をしているのですから、なかなか執筆に専念するというわけにはいきません。それでも業務上書物に触れる機会は多かったので、知識を蓄え続けることはできたようです。

そして父の死から六年ほど経った後、いよいよ史記執筆を始めます。
旅で得た知識や史料から得た膨大な知識をまとめるという作業は、本人にとって意義も意欲も大いに感じるものだったでしょう。
しかし、順調に全てを書ききれたわけではありませんでした。

 

なぜ宮刑(宦官化)になってしまったのか

中国史では”周辺の異民族と長期にわたって戦った”という記録が度々出てきますが、司馬遷の時代もその一つ。

彼は文官だったので直接戦に出向くことはありませんでしたが、ある戦で敗れ敵に捕まってしまった将軍を庇うような発言をしたため皇帝の怒りを買い、牢に繋がれてしまいます。

しかもその将軍が敵に寝返るようなことをしたため、将軍の親戚一同だけでなく庇い立てした司馬遷にも累が及びました。宮刑(男性の大事なアレを切り取るという刑)に処されてしまったのです。
現代でもぞっとしますが、当時は儒教全盛期ですから、子孫を残せない=先祖を蔑ろにすることになるため、子供を作れなくなるというのは大きな屈辱でした。
そのため、司馬遷もこんな刑に処されたことに対し一度は絶望しますが、史記の完成のため自害を思いとどまったといわれています。
既にこの時点で、彼にとって史記の完成は絶対的な目標になっていたんですね。

 

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子供を残せない代わりに歴史を残す!

そして四年ほど経ち、司馬遷はようやく牢から出されました。
再び皇帝から仕事をもらえたものの、それは宮刑に処された男性(宦官)しかなれないとされていた役職だったので、ここでも屈辱を味わうことになります。
それでも彼は後々「あの時死んでいれば気は済んだかもしれないが、生きてきた意味がない。史記を書き上げるまでは死ねないと思った。書き終わった暁には、どんな死に方をしても構わない」(超訳)と語った通り、自らにもそう言い聞かせて公職と執筆に励みました。

しかし、旅行記を記していないことからもわかるように、彼は自分自身に近いことは書こうとしなかったようです。
そのため日記の類はなく、没年もはっきりしていません。なんと、これほど執念を燃やして書き上げた史記の成立年度すらわからないのです。

中国史に必ず登場する「宦官」の恐ろしき実態 特に明王朝の腐敗っぷりがヤバイ……

 

「背水の陣」「傍若無人」「国士無双」などの名言?生まれる

史記は中国における歴史書の原点でもありますが、他の資料と食い違う点もあったりします。
こうなると綿密なんだかテキトーなんだかわかりませんねえ。

ですが、「先んずれば人を制す」「背水の陣」「傍若無人」のように数々の教訓や故事成語を生み出した作品であるのもまた事実。麻雀の「国士無双」なんかも史記からとったものだったりします。

また、当時の庶民の暮らしなど細かなことまで書かれている点、権力の中心人物だけでなくさまざまな民間人、ひいては司馬遷が牢に入れられる遠因ともいえる異民族たちについても取り上げている点は高く評価されてきました。

欲を言えば、これだけ素晴らしい表現を書ける人なら、やはり旅行記や他の著作もしていて欲しかった気もしますが……でも、一生を捧げるつもりで書いたからこそ、そういう文章を書けたと見ることもできますし。
総合して考えると、「人間同様、完璧な著作物などない」ということでいいですかね。

長月 七紀・記

 

 




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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98

 





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