1867年(明治元年)11月7日、後に女性初のノーベル賞受賞者となるマリ・キュリーが誕生しました。
フランス語だと長音がついて「マリー」になります。
これは結婚後の名前を略したものなのですが、多分「キュリー夫人」の方が有名ですし、わかりやすさ優先でいきますね。
生まれがポーランド・ワルシャワでポーランド語の名前なので、日本人にとってはちょっと読みづらくなってしまいますし。
ちなみに最初の名前は「マリア・サロメ・スクウォドフスカ(スクロドフスカ)」だそうです。うん、やっぱり舌噛みそう。
まぁ、お名前の話はそこまでにしまして、時は19世紀。
まだ女性の人権どころか学校教育でさえ浸透していたとは言いがたい時代です。
しかし、マリの家はお父さんもお母さんも教育者だったので、幼い頃から本に親しみ、また記憶力も良い優れた頭脳の持ち主であることがわかっていました。
ここで、ポーランドという国が度々襲われてきた苦難が襲い掛かります。
ポーランドはロシア帝国とヨーロッパ諸国の間に位置するため、度々どちらかからの侵攻を受けていたのです。
マリの時代はロシアに事実上併合されていて、知識層への圧力が加わり、マリの両親は職を失ってしまいました。
それまで住んでいた家も追い出され、一家は非常に苦しい生活を強いられます。
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母や姉を亡くし一時は深刻なうつ病に…
東欧とはいえ北欧に近く厳しい寒さの土地ですから、一度病気にかかれば回復は絶望的。
マリはお姉さんやお母さんを亡くし、一時は深刻なうつ病になっていたようです。
頭がいい人ほどあれこれ考えてしまうことが多いですからね……。
まして、母親を亡くしたときマリは14歳。多感な時期に肉親を続けて失っては、精神的な辛さは筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。
しかし何とか持ち直し、再び学校に通えるようになりました。
本来の頭脳の冴えを取り戻したマリは、ギムナジウムという日本の中学・高校にあたる学校を優秀な成績で卒業します。
当時女性には大学以降の高等教育機関へ進むことが非常に難しかったため、一度田舎で休養した後、住み込みの家庭教師として働き始めました。
この間、辛い失恋もしましたが、「さまよえる大学」という今で言う移動教室のような講義をしている団体に出会い、そこで勉強を続けることができたのは不幸中の幸いだったでしょう。
このあたりで科学の道に入ったようですので、この移動教室こそが彼女の運命を変えたといってもいいかもしれません。
そして24歳の頃フランスに移住し、当時女性の入学を認めていた数少ない大学のひとつ、ソルボンヌ大学(パリ大学を構成する大学のひとつ・現在はパリ第6大学)に入学します。
お姉さんの一人が結婚してパリに住んでいたため、そこへ世話になり、姉夫婦を通じて人脈を広げていけたようです。
また、美女ぶりで学内でも評判だったとか。
物理学の学士号を取得 奨学金で研究を続けた
しかしいつまでも姉夫婦に甘えていられないと考えた彼女は、別に部屋を借りて自ら苦学生の道を選びました。
部屋とも言いがたい屋根裏の一室で、昼は学生として学び、学校が終わってから家庭教師のバイトをし、家に帰ってからは食事もロクにできないような状態になっても一人で生活していたそうです。
当然ながら暖房もなく、冷え込む日には手持ちの衣類を全て着込んでいたとか。お姉さんの旦那さんがお医者さんだったので、そちらにお世話になることもあったほどです。
言い方が悪いですけども、顔で異性をたらしこんで貢がせることもできたでしょうに、そうしなかったあたりに彼女の高潔さが伺えますね。
そして26歳になる頃、ここまでするマリに神様がやっと味方してくれるようになります。物理学の学士号を取ることができたのです。
また、マリと同じくポーランド出身の学生たちが奨学金の手筈を整えてくれ、研究を続けることができるようになりました。
このあたりから外部機関の研究を受託し、わずかではありましたがお金を稼げるようになり、少しずつ生活は改善していきました。奨学金も無事返済できたそうです。よかったよかった。
旦那さんも天才科学者だった
ですが全て順風満帆に行ったわけではありません。
請け負った研究にはそこそこの広さの実験室がなければ進めることが難しいものがあり、場所を用意することができなかったのです。
その頃かつての知人が尋ねてきたところへ、世間話としてその話題をしてみると、たまたまその女性の旦那さんが物理学の教授だったというこれまたラッキーなことがわかりました。
さらに「それなら、部屋を貸してくれそうな人を紹介してあげるよ」と言ってくれたのです。
持つべきものは知り合いですねえ。
こうして出会ったのが、後に結婚することになるピエール・キュリーです。
日本ではキュリー夫人としてマリだけが有名ですが、ピエールも天才科学者として既に相当知られた存在でした。
彼の名を取った「キュリーの法則」というものもあるくらいです。
ピエールは当時女性との交際や出世といった俗念がほとんどなく、マリと会ったときにはビビビときた(古い)ようで、お互い惹かれあっていきます。
また、この人もかなりのイケメンで、マリとは美男美女としてさぞ目立ったでしょうねえ。
ついでにいうと二人の娘も美人です。一家揃って顔も頭もいいとか羨ましい通り越してひれ伏すレベルですわ。
学問でもプライベートでも極めて親密に付き合った二人。
マリは「いつか故郷に帰りたい」と思っていたので、結婚に対しては慎重に慎重を重ねます。
しかしピエールの熱意も相当のもので「結婚してくれるのなら、一緒にポーランドに行くよ!!」(超訳)とまで言って誠意を示しました。
そして出会った翌年の夏、宣誓や指輪もなくドレスのみという簡素な結婚式が行われました。
ポーランドからマリの家族が駆けつけ、小ぢんまりした温かい式だったようです。
新婚旅行も自転車でフランスの田舎を旅するという質素振りでした。
おそらく二人とも「形式的なことに使うお金があるなら、研究に使いたい」と思っていたのでしょうね。
怪光線扱いされていた放射線に興味をもち…
こうして良き研究仲間、良き夫を同時に得たマリは、ここからより一層活躍していきます。
ちなみにマリは料理がからっきしダメだったそうなのですが、結婚後は見る見る上達したとか。
大昔読んだ彼女の伝記で「スープの作り方さえわからない」とまで書かれていた気がするので、愛の力は偉大ということでしょうか。
でもこの後の二人を考えるとうかつに爆発しろとか言えない。
そして二人は、当時アンリ・ベクレルという別の学者が発見していた謎の光線に興味を持つようになります。
先に正解を言ってしまうと、これが放射線でした。
しかし、アンリは途中でこの光の調査をやめてしまったため、当時は怪光線扱いされていたのです。
ウランを始めとしたさまざまな物質で調べてみた結果、同様の怪光線……もとい、同等の光を観察することができました。
そしてこれを「放射性元素」と名付け、世間への発表を急ぎます。
現在の特許などもそうですが、同じようなものを発見したり発明した人が複数いた場合、先に届け出たほうが権利者になるからです。
そのため大急ぎでできるだけ簡潔にまとめた論文を書いたのですが、既にドイツの学者が同様の発見及び発表をしており、夫妻のものとは認められませんでした。残念(´・ω・`)
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