猿蟹合戦なり浦島太郎なり、昔話ではよく違う種類の動物が戦いますが、意外に猿と狸の争いってないですよね。(あったらすみません)
もうこの時点で誰のことだかわかると思うのですが、本日は天正十二年(1584年)11月21日に終結した小牧・長久手の戦いのお話です。信長が本能寺で倒れてから、秀吉が日本の中枢になるまでの戦いの山場にあたります。
秀吉は一年おきにドデカイ戦争
時系列だとこんな感じです。
天正十年(1582)本能寺の変・清洲会議
↓
十一年(1583)賤ヶ岳の戦い
↓
十二年(1584)小牧・長久手の戦い
つまり秀吉から見るとだいたい一年に一度デカイ政敵と戦ってたわけですが、よくもまあこんなペースで(織田家としては)内乱をやっておいて生き残れたものですね。余程計画性がないとこうはいきません。
やっぱり本能寺の黒幕ってゲフンゴホn……本題に行きましょう。

現在の小牧山城/Wikipediaより引用
池田恒興・森長可などを取り込んだ秀吉に対し
小牧・長久手の戦いは、信長の次男・信雄と徳川家康が結託して秀吉に対抗して起きたものです。
もちろんこの時点での主筋は織田家=信雄ですので、家康はあくまでその協力者という位置づけでした。ここは終結の理由にも繋がってくる大事なポイントですので覚えておきましょう。テストには(多分)出ませんが。
戦闘が始まったのは小牧山周辺で、このときは一進一退という感じで戦線が膠着し、大きく戦況が動いたのは長久手周辺に移ってからのこと。違う地名がくっついて一緒くたにされているんですね。なぜなら双方共に戦力的にも遜色ない構図ができていたからです。
秀吉方には信長の乳兄弟・池田恒興とその娘婿・森長可などがつき、家康方には雑賀衆や根来衆など、大名ではない武装集団及び長宗我部家や北条家など少し離れた場所の大名がついていました。
直接戦力を強化した秀吉に対し、家康は外側から圧迫するような形を取ったと見ることができます。この辺は二人の性格がそのまま出ているようで興味深いところです。
講話を持ちかけたのは秀吉で、しかも相手は信雄しゃ~ん
そして、4月の長久手での戦いで秀吉方は恒興・長可を始めとして大幅に戦力を失いましたが、各所での戦いはなんと10月まで続きました。関が原が1日で終わっているため、後世の人間からすると「長ッ!?」と思ってしまいますけれど、本来国の覇権をかけた争いはこのくらい時間がかかるものだということでしょうか。
しかも、決着がついたのは、「どちらかが勝利を収めた」からではありませんでした。11月に入ってから、秀吉が講和を申し入れたのです。後に天下を取る人物のほうが、です。
家康が「東海一の弓取り」「野戦の達人」という評価をされるようになったのがこのあたりからなので、その腕を恐れてこれ以上の長期化を防いだと見るべき……かと思いきや、そこは”人たらし”の秀吉。講和を申し入れた相手は家康ではありませんでした。
使者を送ったのは、バカb・・・と、もとい織田信雄だったのです。
上記の通り、家康は信雄を援護する形でこの戦をしていますから、信雄が「オレ戦うのやめるわwww」と言ってしまえば戦う理由がなくなってしまいます。秀吉はここに目をつけたのです。
そしてその通り、条件付きではあったものの信雄が一人で講和を決めてしまったため、家康は兵を退かざるを得なくなりました。

長久手古戦場碑/Wikipediaより引用
猿vs狸 第一ラウンドは猿の勝ちだが・・・
しかし、戦後処理からも秀吉がどうにかしたかったのは家康のほうであることはモロバレです。
少し前に信長の三男・信孝を破ったときには自害させたのに、信雄に対しては放置。その代わり?に家康からは次男(結城秀康)を人質にとっていますし、結果的に家康に協力する形になっていた勢力については、紀州攻め・四国攻め・小田原征伐と、軒並み後で処分しました。
この辺の事情、狸は何回舌打ちをしたんですかね。やりすぎて野良猫を懐かせようとしてる人みたいに見えたかもしれません(冗談です)。
伊達家を始めとした東北方面の始末をつけたとき、家康は地元側に有利になるようなことを度々しているのですけども、もしかしたら「コイツら小牧・長久手のとき関わってなかったから、うまく飼いならせば使えるかもしれん」と考えていたからなのかもしれません。
どちらにしろ結局、猿の小細工は後々(という名の死後)狸によって帳消しにされるんですけどね。狸も一応気遣いはしてたからどっこいどっこいでしょうか。
それまでもお互い面識はあったでしょうけども、狐と狸ならぬ猿と狸の化かしあい第一ラウンドがこの小牧・長久手の戦いだったのかもしれませんねえ。
長月 七紀・記
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