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豊臣家 その日、歴史が動いた 立花・高橋家

猛将・佐々成政と肥後国人一揆 なぜ成政は地元武士たちに反乱を起こされてしまったのか

更新日:

 

のっけから絶望的な話で申し訳ないのですが、人間努力してもどうにもならないタイミングや分野のことってありますよね。泣きっ面に蜂というか弱り目に祟り目というか。
そういう”やる事成す事がいちいち裏目に出る”というタイプの人はやはり昔から珍しくなかったようで、戦国時代にも度々いました。
天正十五年(1587年)12月2日に終結した肥後国人一揆は、そんなとある武将の運命を決定付けることになった戦です。
それは誰かといいますと、先日ご紹介したミスターさらさら越えこと佐々成政。(参考「佐々成政が冬のアルプス越え?「さらさら越え」で家康に直談判【その日、歴史が動いた】」
あの後一回秀吉とガチンコ勝負したのですが結局負けてしまい、九州征伐が終わってから肥後(現・熊本県)をもらって何とか大名としての地位は守れました。
が、そこで彼の生真面目さが裏目に出て……というか、自らそうなるようなことをやらかしてしまいます。

佐々成政/wikipediaより引用

 

越中人にはOKでも肥後もっこすには通じなかった!?

秀吉の業績として挙げられる単語はいくつかありますが、有名なものといえば太閤検地と刀狩りですよね。
検地とは田畑の面積や収穫量を調べることで、取れ高に合った年貢を課すためにやるものです。ちょっと語弊があるかもしれませんが、秀吉から見ると「予算会議(実地)」というところでしょうか。
秀吉は本能寺の変の後あたりからこの検地を重要視していて、当然九州征伐後も「お前ら自分のシマできっちり検地をするように!」(意訳)と命じています。

成政もこれに従い、肥後の検地を進めようとしました。
が、あまりに早く終わらせようとしすぎて手荒になってしまい、国人達の怒りを買ってしまいます。
国人とは地元の有力者のことで、肥後には50人以上いました。九州征伐の直前に島津家の傘下に入っていましたが、その後は成政の配下扱いになっていたのです。
成政の生年がはっきりしないため、この頃何歳だったのかよくわからないのですが、一説には「病気してたからはやく検地をしたかったのでは?」ともいわれています。
が、彼らからすれば「関白殿下の命令ならともかく、何であんなよくわからんヤツにうちの畑を好き勝手されなきゃいけないんだよ!」としか思わなかったであろうことは想像に難くありません。
そして成政が肥後にやってきてたった一ヵ月後、国人達は反旗を翻します。気が短いにも程があるやろ。
当然、成政は事を収めるため兵を率いて現場に向かいました。
が、健闘はしたものの血縁者を含めた家臣達が何人も討死してしまったため、これは手に負えないと判断して秀吉に援軍を頼みました。
あれ、九州征伐前の大友家も同じようなことしてた気が……。

 

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九州最強の若き武将立花宗茂が活躍しすぎて…

そして差し向けられたのが同じ九州で領地をもらっていた立花宗茂とその弟・直次でした。
彼らは1200人程度の兵力で、決して数的には頼もしいとはいえませんでしたが、一日に13回も交戦するわ、城を合計7つ落とすわ、自軍の半数を超える650人を討ち取るわで、成政の立場が木っ端微塵に粉砕されるほどの活躍をしてくれました。
ちなみに成政が連れて行ったのは7000人ほどだったそうです。……ゑ?

その後さらに他の九州の大名達も加勢してくれ、この一揆は年内に片付けることができました。
めでたしめでたしといいたいところですが、事の経緯を知った秀吉はどう考えたでしょう?
既に唐入りを検討し始めていた頃です。神話時代の神功皇后、奈良時代の肝っ玉かあちゃん(過去記事:天皇みずから新羅との戦に備えて難波を出発 しかも女帝!【その日、歴史が動いた】)や鎌倉時代元寇といった例を引くまでもなく、大陸に渡るとすれば九州は最前線。
そんな大事な場所に、こんな頼りないヤツを置いといていいんだろうか……? と思いますよね。
成政の対応にも問題がありました。
そもそもこの一揆は彼が強引に検地を進めたからだったのに、秀吉へ謝罪に行ったのが翌年の2月なのです。戦後処理があったとはいえ、遅いといわざるを得ないですよね。

「国人よりもわしが怒ったよ!」(絵・富永商太)

絵・富永商太

 

案の定秀吉は面会を許さないほど激おこ。成政はそのまま幽閉され、切腹を命じられてしまいました。
一応安国寺恵瓊が助命を願い出てくれたんですが、プッツンしたときの秀吉が誰かの言うことをあっさり聞くはずもなく、成政は命を落としたのでした。

さらさら越えのときといい、成政はどうにも真っ直ぐすぎるというか「俺がこれだけ努力したんだから、きっと認めてもらえるに違いない」という思い込みが強い人だったようですね。
素直なことは長所ですし、武士として劣っていたわけでもないので、政治的センスのなさだけが余計惜しまれます。
というか家臣のうち誰かアドバイスしてくれなかったんですかね。まさか家中全員脳筋だったわけじゃないと思うんですけども……どっちにしろ可哀相だ。

長月 七紀・記




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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/肥後国人一揆

 




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