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フランス その日、歴史が動いた

ナポレオンの部下ミシェル・ネイの切なき一生~仏国のため粉骨砕身で戦うも最後は銃殺刑

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当コーナーでも度々お話していますが、やはり洋の東西によってある程度人の行動や性格は変わってくることが多いですよね。

宗教の違い、地域ごとの慣習、成長するまでにどんな教育を受けてどのくらい影響を受けたかなど、要因はいろいろあるでしょう。どれも言動や思想に大きく影響を与えますよね。
しかし、たまに「こいつ○○人ぽくないな」という人も出てくるのが面白いところで。
今回はその一人だったと思われる、とある軍人のお話です。

1815年(日本では江戸時代・文化十二年)12月7日、ナポレオンの部下の一人だったミシェル・ネイが銃殺刑に処されました。
ということはよほど軍人としてマズイことをしてしまったのかと思いきや、彼自身はそう犯罪と呼ぶようなことはやっていなかったりします。
では、なぜこんな不名誉な死に方をしなければならなかったのでしょうか。

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ミシェル・ネイ/Wikipediaより引用

 

革命戦争で各地を転戦 30歳で師団長に出世する

彼は、フランスとドイツの国境にあるザールルイという町に生まれました。今はドイツ領ですが、この二国はこのあたりを巡った戦争を何回もやっていますので、双方の文化や言語が入り混じっています。
ネイもその影響を受けてか、フランス人ともドイツ人とも似ているような似ていないような性格に育っていったようです。テンプレに当てはまらないからといって「らしくない」というのもよくないですけども。

軍に入ったのは18歳のとき。まだフランス革命は始まっていませんでしたが、貴族たちが王に反抗し始めていたので、きな臭い雰囲気を誰もが感じ取っていたでしょう。
そして革命によって戦争が始まると、各地を転戦して活躍しました。度々大怪我をしたり捕虜になることもありましたが、30歳で師団長という位をもらうくらいですから、功績は認められていたようです。

「師団」というのは軍の単位で、一つの方面でまとまって動く部隊の一番規模が大きいものです。師団の中に旅団や隊など、さらに細かいグループがありますが、ややこしいので割愛しますね。
ものすごくテキトーなイメージで言うと、構造としては入れ子の箱とかマトリョーシカみたいなものです。一番外側で一番大きいのが「軍」で、その2~3個内側が「師団」と考えればわかりやすいでしょうか。

この有名な肖像画の帽子ではないようです/wikipediaより引用

ナポレオンに認められ・・・/wikipediaより引用

 

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彼こそ勇者の中の勇者!→モスクワ川大公の称号をゲット

上記の通り決して「連戦連勝」とか「完全無欠」なタイプではありませんでしたが、彼が最も活躍したのは、フランス軍がロシアへ攻め込んだ戦い=いわゆるロシア戦役でのことでした。といっても進軍時ではなく、撤退時のことです。
夏に意気揚々とフランスを出発し、秋口にはモスクワを制圧したものの、その後のナポレオン軍は坂を転がり落ちるより酷い惨状に陥ります。ロシア軍のお家芸、焦土作戦+冬将軍のコンボが発動したからです。
それでもさすがというか何というか、戦闘で大敗することはなかったのですが、食料の補給ができなくなると内側から壊れていきました。

これには、フランスとロシアでそれぞれ使われていた馬の特性の違いも大きく関係しています。
ロシアの馬は地元産ですから、地元にあるものを食べれば生きていくことは難しくないですよね。しかし、フランスの馬は燕麦(=オーツ麦。オートミールなどの原料)というロシアではほとんど育たない麦が必要だったので、どんどん弱って死んでしまったのです。

そんな状況では当然人間もまともに食事をできていませんから、弱った馬は容赦なく食料の足しにされてしまいました。フランスで馬肉を食べるようになったのはこれがきっかけという話があるくらいですから、相当美味しく感じたのでしょうね。

こうして士気も人数も急転直下する中、ネイはただでさえ難しい渡河戦を成功させ、ナポレオンから「彼こそ勇者の中の勇者だ!」という最大の賛辞と、モスクワ川大公という称号をもらいます。このためネイの名は歴史に大きく刻まれることとなりました。

しかし、「ロシアで活躍したから」って理由でロシアの地名の称号もらってもトラウマが蘇るだけな気がするんですがゲフンゴホン。軍人さんならそんな軟弱なこと考えないんですかね。

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カウナスの戦い/Wikipediaより引用

 

騎兵のみで突撃して大失敗 フランス敗退のキッカケとなった

その後もナポレオン軍の一角として各地を転戦しますが、周辺各国がフランスを完全に取り囲み、パリが陥落するとそうもいきませんでした。
ナポレオンがエルバ島へ最初の追放をされた後は、一時王権を取り戻したルイ18世(ルイ16世の弟)に仕えています。
ナポレオンについては不甲斐なさにキレていたのか、「あの野郎を檻に入れて引っ立ててきます」とまで言っていたそうですが、ナポレオン自身が書いた手紙を受け取ると心を打たれ、エルバ島脱出後は再びナポレオンに仕えました。

そしてナポレオン最後の戦争になったワーテルローの戦いにも従軍しますが、ここでネイは最大の失策をしてしまいます。
砲兵や歩兵と連携することなく、騎兵のみで突撃をキメてしまったのです。( ゚д゚)ポカーン

軍隊というのは基本的に、いろいろな種類の兵がそれぞれの得意分野を生かすことによって、他の兵種の欠点を補ってできています。
例えば、歩兵は機動性では劣りますが、馬や戦車が進めないような地形でも入っていけますよね。だから現代でも一番人数が多いわけです。
また、騎兵の一番のメリットは機動力に加えて乗り手の疲労が軽減することですけども、「正を射んと欲すればまず馬を射よ」とことわざにあるように、馬を先にやられてしまったら戦力が半減以下になってしまいます。一応白兵戦用の装備も用意してはいますが。
砲兵は準備・移動で大幅に時間が必要になるものの、当たればもちろん大打撃を与えることができます。

これまたテキトーですが、だいたいこんな感じです。こうした特性を生かすことによって、全体としての攻め方が整って強い軍隊になります。もちろん士気(殺る気)や上官の人気も欠かせません。これらが高いほど、命令に忠実に従うからです。

ずっと軍にいたネイがこれをわからなかったはずはないのですが、この大失敗によりフランス軍は敗北、ナポレオンは再び流罪になってしまいました。ネイもただでは済まず、捕まって裁判を受け、銃殺刑が決まったというわけです。

 

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私はフランスのために百回戦ったが、祖国に逆らったことは一度もない

このときネイの処刑に賛成した人物の中には、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘であるマリー・テレーズもいました。
が、当時ネイの功績、特にロシア戦役のときのことはこうした人々にあまり知られていなかったらしく、彼女は「もし彼の祖国への献身振りを知っていたら、私は処刑に同意しなかっただろう」と言っています。
身分の高い婦人だったために情報に疎かったか、あるいは周囲が意図的に隠したのかもしれませんが。

ネイは銃殺を恐れず、処刑直前の言動がいくつか伝わっています。
普通銃殺刑のときは対象者に目隠しをさせるのですけども、ネイはそれを「私が何年銃弾を間近で見てきたと思っている?」と拒みました。
そしていよいよ発砲というときには、このように言い残しています。

「兵士諸君、これが最後の命令だ。
号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て。
私はこの不当な判決に抗議する。
私はフランスのために百回戦ったが、祖国に逆らったことは一度もない」

ネイの処刑に関して「ルイ18世の復讐だ」とする意見もあるようですが、ネイ自身としてはナポレオンもルイ18世も関係なく、国のために戦ったという意識だったのでしょうね。

ネイの最期は悲劇的なものでしたが、政治家や軍人はそういう考えを持っていてほしいものです。

 

漫画『ナポレオン 獅子の時代』にみるフランス革命の明暗【歴史マンガウソホントVol.7】

長月 七紀・記

参考:ミシェル・ネイ/Wikipedia




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