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その日、歴史が動いた 豊臣家

小六の息子・蜂須賀家政とは? 徳島の阿波踊りを始めたのは器用貧乏なこの人!?

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世の中はデキる人が貧乏くじを引くようにできています。いや、「中途半端に」とつけたほうがいいですかね。

単純作業を手早く済ませられたり、お客さんに気に入られたがために何かと呼びつけられたり、多分あっちこっちでこの手の損をしている方がいるのではないかと思います。
信頼されているのですから悪いことではありませんけども、しっくりこないというか損した気分になりますよね。

戦国を生き抜いたとある家の二代目にも、そんなタイプと思しき人がいました。

寛永15年(1639年)12月30日に亡くなった蜂須賀家政です。

蜂須賀家政/wikipediaより引用

蜂須賀家政/wikipediaより引用

 

父親の代わりに息子が大名に 桁違いの18万石 

名字からお分かりの方も多いと思いますが、秀吉の側近だった蜂須賀小六(正勝)の息子です。
父に似て武将としても優秀だった彼は、中国攻めや山崎の合戦、四国征伐にも従軍して武功を挙げました。

ここで秀吉が小六を大名にしようとしたところ、当人から「俺はお前の側で働きたいんだよ!」と熱い断られ方をしてしまったため、「そんなら息子にやってもらうわ」ということで家政が代わってその役目を引き受けることになります。
それまでも領地自体はもらっていましたが、今度は阿波一国丸ごと18万石というまさにケタ違い。従五位下・阿波守という官位ももらい、名実ともに立派な大名となります。

そういう、棚ぼたなのか貧乏くじなのかよくわからん経緯ではあったものの、家政は根が真面目だったのでそつなく仕事をこなしていきました。

 

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阿波踊りを始めたのは家政さん?

面白いのが、徳島城が完成したときのエピソード。現在も徳島名物といえば必ず出てくる「阿波踊り」は、家政が城の落成時に「こいつはめでたい!皆好きに踊れ!」というお触れを出したことから始まったという説があるのです(それ以前から存在した説もあります)。

多分当初は好き好きに踊っていたのを、誰かが振り付けをまとめていったんでしょうね。

でも、「こんなお触れを出したお殿様がいたんだよ」と言い伝えられるということは、家政が庶民からも親しみを持たれるような、身近な存在だったということにもなるんじゃないでしょうか。
実際にあったかどうかが証明できない以上、文字通りの意味とそこからあれこれ推測するのも歴史の楽しみですからね。

徳島と言えば阿波踊りですよね~/wikipediaより引用

徳島と言えば阿波踊りですよね~/wikipediaより引用

 

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慶長の役で不満と言えば・・・やはり三成の登場です 

もちろん踊ってばかりいたわけではなく、九州征伐や小田原征伐、2回にわたる朝鮮の役でにも参戦し、功を挙げています。

特に慶長の役(朝鮮出兵第2ラウンド)では味方の大名を激戦の中から救出するという大活躍ぶりだったのですが、これを咎めた人が国内にいました。大方の予想通り石田三成です。
彼は「あんなことしなくてもよかったのに」的なことを家政に言ってしまった上、家政が秀吉から預かっていた土地を取り上げてしまい、ものの見事に恨みを買ってしまいます。三成は三成で戦後のことを考えており、戦線を縮小させたいと思っていたので、家政の行動が邪魔をしたような形になってしまったんですね。

つまり、味方を救出したことではなく戦った場所について文句を言ったわけですが、当時の状況的にそれはほぼ同じ意味だったため、本人の意図とは違った方向に受け取られてしまったようです。
ホント、頭いいのに言葉が足りないというか何というか残念な人です。この手の行き違いをあっちこっちでやっちゃった結果が関が原なんでしょうねえ。

©富永商太石田三成

イラスト・富永商太

 

家康の養女を嫁に貰い、上杉征伐へ参加したため、高野山へ 

話を家政に戻しまししょう。
そんなわけでムッとするようなことはあったものの、家政は瞬間湯沸かし器タイプではなかったので、帰国後も「やや家康寄り」程度の立ち位置にいました。
が、そのハッキリしない態度が気に入らなかった西軍首脳は、家政を高野山へ追いやってしまいます。息子の至鎮(よししげ)を家康の養女と結婚させたり、上杉征伐に参戦させたのはけしからんという理由でした。

以前の記事で似たような話をしましたが、前者はともかく、後者は豊臣政権筆頭である家康が起こした軍(しかも秀頼と朝廷のお墨付き)に従っただけなんですから、これだと三成たちが秀頼と朝廷の意向に逆らいたいってことになっちゃうんですけどねえ。

まあそれはともかく、家康から見ると「蜂須賀家」としては逆らっていないことになりますし、至鎮もきちんと働いていたので所領は安堵されました。ただし、政治上のゴタゴタが嫌になったのか、家政は関が原後に頭を丸めて隠居しています。そりゃあな。

 

「二股膏薬」の伊達政宗に、「阿波の古狸」呼ばわりされる

そうして無事息子に跡を継がせることができたのですが、大阪の陣が終わった後に一大事が起きます。息子の至鎮が先に死んでしまったのです。元々病弱だったらしいので、その上戦に内政にと頑張ったために、命を縮めてしまったのかもしれません。
幸い忠英(ただてる。家政から見ると孫)という息子がいたため、跡継ぎ不在による改易という最悪の事態にはなりませんでした。が、忠英はまだわずか九歳だったので、隠居の家政が再び家を取り仕切ることになります。

至鎮が亡くなった時点で家政は60歳を超えていたので、当時の感覚としては長老みたいな存在でした。古強者好きの家光に呼び出され、戦国の話を聞かせたこともあったそうです。
似たような立場だった某独眼竜とはあまり馬が合わなかったのか、「阿波の古狸」といわれてしまっていたようです。そのご当人は昔「二股膏薬(ふたまたごうやく)」=どっちにでもひっつく(味方する)信頼ならないヤツ、って言われてたんですけどね(ボソッ)。

しかし、親父の代わりに大名になり、息子に代わって孫を育てたというと何だかなあという気もしますねえ。上記の通り、どの時点でも大損はしていないのですけども。

家政の性格や人柄に関するエピソードはあまりありませんが、多分「家政なら何とかしてくれる」「家政なら大丈夫に違いない」と思われるような人だったんでしょうね。

……あれ、オチがつかないぞコマッタナー。

興源寺にある家政の墓所/wikipediaより引用

興源寺にある家政の墓所/wikipediaより引用

長月 七紀・記

参考:蜂須賀家政/Wikipedia

伊達政宗は浅野家ともトラブルを起こしており、それが赤穂浪士事件(忠臣蔵)になったなんて説もあります

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