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その日、歴史が動いた 江戸時代 寺社・風習

金地院崇伝vs南光坊天海の勝者は? 江戸のブラック僧侶対決!

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世俗の欲を捨てて神様仏様に使えるのが聖職者というものですが、歴史を見ているととてもそうとは思えない人もいますよね。
当初から欲まみれだったか、だんだんそうなってしまったのかは人によりますが。
寛永十年(1633年)1月20日に亡くなった金地院崇伝は、どちらかというと前者として評価されていることが多いようです。

「黒衣の宰相」とも呼ばれますが、彼固有のあだ名ではなく、この名で呼ばれたことのある人物は他に四人います。源平時代の藤原信西、室町時代の満済、安国寺恵瓊、南光坊天海です。
合わせて五人というとつい戦隊ものをイメージしてしまいますが、残念なことに全員ブラックなので見分けがつきません。どっちかというとお腹の中の話ですけどね。

まあ与太話はさておき、崇伝はどうやって狸に気に入られたのでしょうか。

江戸僧侶ビッグネームの一人・金地院崇伝さんの登場です/Wikipediaより引用

江戸僧侶ビッグネームの一人・金地院崇伝さんの登場です/Wikipediaより引用

 

室町幕府の名家・一色家に生まれる

彼は永禄十二年(1569年)に一色家という室町幕府の重臣の家に生まれました。とはいえ既に幕府はなかったので、名門の”末裔”といった感じでしたが。
そのためか、幼い頃から仏の道に入って修行を積み、36歳で臨済宗及び禅寺の中で最も格の高い南禅寺というお寺の住職になりました。このとき、徳の高いお坊さんにしか与えられない紫衣を後陽成天皇から賜っています。

崇伝が政治の舞台に出てくるのは、慶長十三年(1608年)のこと。意外にも関が原の後の話なんですね。
その頃、承兌(しょうたい)というこれまた家康の知恵袋だったお坊さんが亡くなってしまったので、その代わりが勤まる僧侶ということで駿府へ招かれたのでした。
ちなみに承兌は、直江兼続が例の慇懃無礼な果たし状・直江状を出したときの宛て先でもありますので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょうかね。

 

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黒いライバル・南光坊天海の登場!

ともかく実力者の後任でしたから、崇伝もつまり当初からある程度の権力と仕事を任されていました。特に江戸幕府の根幹となる法律の制定に大きく関わっています。

武家諸法度や禁中並公家諸法度、はたまたキリスト教の禁止や豊臣家へのイチャモンこと方広寺鐘銘事件など、この時期のテストに出そうな単語にはだいたい絡んでいます。
方広寺鐘銘事件については問題を取り上げたかどうかはっきりしていませんが、豊臣方への詰問をしたそうで、坊主のくせに結構キツイ人だったぽっいことが伺えます。
まあそうでもなきゃ若くしてお寺のトップとかなれませんよね。

が、さすがに崇伝の独壇場とは行きません。中でも有名なのは、同じく狸の側近だった南光坊天海との対立です。宗派が違うとはいえ仏僧同士なんだから仲良くしろよと。
特に家康が亡くなったとき、この二人は火花が飛びそうな争いようでした。誰かお釈迦様呼んできて~。

もう一人のブラック坊主・南光坊天海さんも欠かせない!/Wikipediaより引用

もう一人のブラック坊主・南光坊天海さんも欠かせない!/Wikipediaより引用

 

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崇伝は明神様を推していたが、結局、権現様に

崇伝と天海が喧嘩する火種になったのは、家康の神号でした。

一般人からすると、「なんで仏教のお坊さんが神道の祭り方に口を出すんだ」と言いたいところですが、江戸時代の時点で千年以上神仏習合をやってる日本ではよくある話ですね。真面目に考えると、僧侶としてではなく家康・幕府の重臣として話し合っていたということなのでしょうけども。

崇伝は「明神」という号がいいと考えていました。
これは神様の中でも特別に祀られる場合に用いられる名称で、神田明神や稲荷大明神などが有名ですね。まあ江戸幕府の開祖ですし、無難といえば無難です。

これに対し、天海は「権現」にしようと主張していました。こちらは「仏様が日本の神様の姿で現れた」ということを意味するものです。
ややこしいですが、ものすごく無理やり例えると「中国人が日本の着物を本職の人に着付けてもらいました」みたいな感じですかね。山王権現や愛宕権現などが有名です。

どっちもそれなりの理由があって「こっちがいい!」と言っていたので揉めたわけですが、ここで大問題が発覚します。秀吉が「豊国大明神」になっていたことです。
これでもし、家康を同じ明神号で祀ってしまうといろいろマズイですよね。秀吉からすれば息子を殺しくさったヤツと同じ号になるなんて真っ平御免ですし、世の人からしても「一時は主君だった人の家を滅ぼしたくせに、同じ神号にするなんてどこまでタチが悪いのかしらー、いやーねー」(※イメージです)とか言われかねません。
そのため家康は明神ではなく、権現として祀られることになったのでした。

 

紫衣、勝手にもらったら島流し、絶対! しかし・・・

その後彼が関わったものとして有名なのは「紫衣事件」です。
江戸時代初期の幕府と朝廷のゴタゴタですが、発端は朝廷がやたらと紫衣を与えるようになってしまっていたことでした。紫衣とは、お寺の中でも高僧だけが朝廷から賜ることのできるもので、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。

上記の通り、崇伝は若い頃実力で紫衣を賜っていますから、怒りもひとしおだったことは想像に難くありません。このとき紫衣を取り上げられた僧侶達から抗弁書が出たときも突っぱね、離島への流罪を主張しています。
彼よりは温厚だったと思しき天海らによって、これも軽減されてしまうのですが。多分こんな感じで天海に頭を抑えられるようなことが何回かあったせいで、崇伝のほうが知名度低いんでしょうね。天海=光秀説が有名というのもあるかも。

どうでもいい話ですが、個人的には正体不明すぎて怪しい……というか胡散臭い天海よりは、ちょっとキツくても現実味がある崇伝のほうが好きですねえ。

当時は「大欲山気根院僭上寺悪国師」とか「天魔外道」とか散々な言われようだったようですが、政治の世界で欲がなかったら何もできない気がします。欲がなくて有名だった松平定信は厳しすぎてうまくいきませんでしたし。

いつの時代もさじ加減は難しいということでしょうか。

 

長月 七紀・記

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参考:崇伝/Wikipediaより引用

 

 





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