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その日、歴史が動いた 島津家 諸家

九州三傑の一人・龍造寺隆信! 大友家の領地を削り取り、島津家にフルボッコ

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「東男に京女」というように、何となく地方ごとに人の性格もある程度に通ってくる気がしますよね。気候や歴史的経緯から来ることが多いと思うのですけれども。

例えば「東京人は冷たい」と言われるのだって、さまざまな地方から人が集まるために共通点が少なく、誤解やすれ違いが起きやすくなり、あまり積極的に人と関わろうとしなくなることが多い……とかそんな感じなのではないでしょうか。

似たような言い回しとして「九州男児」というのもありますよね。頑固だけれども情に厚い男らしい人、というイメージが強い気がしますけども、戦国時代となるとそういう人ばかりでもなかったようで……。本日はそんなお話です。

享禄二年(1529年)2月15日、家を九州の三大勢力の一つに押し上げた龍造寺隆信が誕生しました。肥前(現・佐賀県)の大名です。

龍造寺隆信

龍造寺隆信さん・・・恰幅の良さがおわかりかと/Wikipediaより引用

 

中国地方の実力者・大内家を利用して当主に!

戦国時代の九州というと大友宗麟や島津家のほうが有名かもしれません。

が、龍造寺隆信も負けず劣らず逸話に富んでいます。他に比べると明るい話とかイイ話が少ないので、その分人気や知名度も低くなってしまっているようです。
一度親戚のお寺に預けられて育ちましたが、小さいときから「こいつは大物になるぞ」といわれていたとか。
……まあ、確かになりましたよ。主に物理的な意味で。

彼は元々本家の血筋ではなかったのですが、後継者がいなかったので本家の未亡人と結婚するというやや特殊な形で家を継ぐことになります。
元はといえばその未亡人も別の家の人ですから、この相続には当初から不満を抱く家臣も少なくなかったようで。そりゃそうだ。

しかもまずいことに、隆信はこれを力ずくで抑えるにも等しい行動に出ます。中国地方の実力者・大内家と手を組むことによって、「俺に逆らったら大内さんが黙ってねーぞ!」的な威圧をしたのです。
こうなると表面上は鎮まってもお腹の中はどす黒くなっていくばかりなんですが、隆信はそれがわからなかったようです。残念。

陶晴賢に滅ぼされた大内義隆。お口の周りに生クリーム付けてるわけじゃありません/Wikipediaより引用

大内義隆。お口の周りに生クリーム付けてるわけじゃありません/Wikipediaより引用

 

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大友宗麟が島津に敗れてオコボレGET!

さて、隆信が頼りにした大内家は、家臣・陶晴賢謀反からの毛利家にボロ負けという流れをたどったため、いつまでもアテにできなくなりました。そのため一度は城を追われていますが、根性で他の家を味方につけて当主に返り咲いています。

その後小弐氏という家を滅ぼし、九州の雄として名乗るにふさわしい規模になった龍造寺家は、周辺の有力大名とぶつかっていくことになりました。

まず真っ先に戦ったのは、豊後(現・大分県)の大友宗麟です。

が、同時期に家中の粛清も始めてしまったため、戦況と同時進行で人望を失っていってしまいました。デカイ敵と当たるにはまず結束を、というところまでは合ってるんですけど、手段が悪すぎますよね。隆信は上記の通り家中でのアレコレを度々経験していたため、相当疑心暗鬼になっていたようです。

大友家が耳川の戦い(過去記事:島津VS大友、九州の関が原!耳川の戦い前編【その日、歴史が動いた】)で島津家に大敗したおかげで、その隙を狙って大友家の領地を削り取ることができたのですけどね。

大友宗麟

キリシタンでもあった大友宗麟さん/Wikipediaより引用

 

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チート島津家にはさすがに勝てません

まあそれはともかく、そうなると今度は龍造寺家VS島津家となるわけです。
高瀬川(現在は菊地川。熊本県北部)であわや大会戦となるところでしたが、同時期に隆信へ反乱した家臣が多かったため、このときは直接やり合わずに「ここまで俺んち! その辺からはお前んち!」(超訳)という約束を取り交わして丸く収めました。
この時点で雲行きが怪しいってレベルじゃないですよね。そもそも和睦の締結を巡らせられる知恵があるんだから、もっと頭を使えと。

が、既に人心を失っていた隆信に良いアドバイスをしてくれる者もなく、次の沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津家にボロ負けしてしまいます。

この時期の島津家がチート揃いだったのも不幸な偶然でした。

島津を強くした一人・高久/Wikipediaより引用

島津を強くした一人・15代当主の貴久/Wikipediaより引用

 

太りすぎて馬に乗れず、輿に乗ったまま首を取られる

この頃「隆信はすっかり太ってしまっていて馬にも乗れなかった」という説がありまして、そのため輿で移動しており、あっという間に見つかってしまったといわれています。しかも兵が輿を置いて逃げてしまったそうで、隆信は文字通り身動きできないまま首を取られたのだとか。
輿に乗って戦に出た武将というと、雷親父こと立花道雪や関が原の大谷吉継などがいますが、他の二人と比べるとなんというか、その・・・。病気か体格かという理由と日頃の行いでしょうかね。

ちなみに隆信の時代に忠臣が全くいなかったわけじゃないんですが、その人すら沖田畷のときには隆信の遺体を収容せず(できず?)に逃げ帰る有様だったそうです。
そこまで行くとさすがに可哀相ですが、ホント人の上に立つ人こそ日頃の行いが大事ですね。

ついでに言うと、その人が後々旧龍造寺領を治めることになります。アルェー。
当時から「アイツは主君を裏切って領地をぶん捕ったんだ!」なんて目で見られて大変だったそうですが、まあその話もいずれ。

 

長月 七紀・記

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参考:龍造寺隆信/Wikipedia

 

 





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