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その日、歴史が動いた 音楽家

泥沼不倫に結婚、二股ひた繰り返す 音楽家ドビュッシー リア充爆破せずで嗚呼唖然

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「作家や芸術家には変わり者が多い」というのはおそらく万国共通の認識でしょう。
変わっている方向性によっては「まあいいんじゃない」で済ませることもできますが、「いやそれどう考えてもアウトだろ」なものだとちょっと見方が変わってしまいますよね。作品の素晴らしさには変わりないのですが。
これが稀な話でもないのがまあ、何というか、「事実は小説より奇なり」というやつかもしれません。

1918年(大正七年)の3月25日に亡くなった音楽家、クロード・ドビュッシーもその一人です。
「海」や「夜想曲(ノクターン)」、「2つのアラベスク」など代表作を並べるだけでも多すぎるほどの名作曲家ですが、実はとある困った傾向を持っていました。

ドビュッシーは元々気難しい性格だったのですけれども、恋愛関係もまた一筋縄ではいかないことが多かったのです。不倫や二股など、第三者を巻き込むこともしょっちゅうでした。ヤダーサイテー。

では、それぞれのお相手と付き合っていた頃、どんな曲ができたのかという角度からドビュッシーの作品を見てみましょう。

クロード・ドビュッシー/wikipediaより引用

クロード・ドビュッシー/wikipediaより引用

 

1880年~1888年 マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人と交際(不倫)

ドビュッシーの学生時代にあたります。多分これ以前にも恋愛自体はしていたでしょうけども、のっけから不倫ってレベル高いですね。
この頃はまだデビュー前といった時期で、フォン・メック夫人という資産家の未亡人に雇われてピアニストをしていました。この人の娘さんともピアノを教えているうちに恋愛関係になっています。
年上の人妻と不倫しながら、ほぼ同年代の女性とも付き合うって守備範囲広いですね。ある意味紳士的なんでしょうか。

1889年~1898年 ガブリエル・デュポンと同棲→テレーゼ・ロジェと浮気→ガブリエルが自殺未遂

さあ盛り上がって参りました。いや、当の女性達にしたらそんな話じゃないですけども。
ドビュッシー当人は、この頃行われたパリ万博でジャワのガムランという音楽に触れ、大きな影響を受けました。
「2つのアラベスク」や「月の光」で有名な「ベルガマスク組曲」がこの頃に書かれています。
よくこんな修羅場の中であんな繊細な曲が生まれたものですね。

また、音楽以外の点でも有名な「牧神の午後への前奏曲」もこの頃の作品です。発表から数年後、ロシアの伝説的なバレエダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーによってバレエ化されました。
さらにそれを元にして、同じくロシアの宇宙じ……もとい努力と天才のフィギュアスケーターであるエフゲニー・プルシェンコが振り付けに取り入れたことがあります。

 

1899年 マリ・ロザリー・テクシエと結婚

”同棲相手が自殺未遂をした翌年に別の女性と結婚する”というウルトラCです。よくブッコロされませんでしたね。現代だったらさぞビッグニュースになっていたことでしょう。
「夜想曲」を書いたのはこの頃です。フランス語だと「ノクチュルヌ」ですが、日本では英語名の「ノクターン」のほうが知られていますね。
ちなみに夜想曲自体は「夜の風景をイメージして作られた曲」なので、ドビュッシーだけでなく多くの作曲家が書いています。いろいろ聞き比べてみると面白いかも?

 

1904年 エンマ・バルダックと交際を始める、マリ・ロザリー・テクシエが自殺未遂

日本では日露戦争開戦の年ですが、ドビュッシーの私生活も戦争状態でした。
旦那の浮気が元で奥さんが自殺をしかける、というのは稀にある話ですが、ドビュッシーの場合二人目だというのが実にひどい。
さすがに大作を完成させる余裕はなかったのか、この辺りの作品ではあまり有名なものはありません。シャンソンやピアノの短い曲を数作ずつ書いていたようです。

 

1905年 マリ・ロザリー・テクシエと離婚、エンマ・バルダックとイギリスへ

何かもう「女性の敵」と言っていいんじゃないかという流れですね
この頃ドビュッシーの代表作のひとつ、交響詩「海」を発表しました。が、同時に女性関係のアレっぷりも世間に露呈してしまったため、二人でイギリスへ逃げることになったのです。当然のことながら、それまで付き合いのあった友人達もドビュッシーから離れていきました。
エンマも奥さんを自殺未遂させて平気な人とよく一緒に外国へ行ったものです。既にドビュッシーの子供を身ごもっていたそうなので、一人で行くのが不安だったからかもしれませんが。

 

1905年 パリへ戻る、一人娘・クロード=エンマ誕生

が、同じ年の内にドビュッシーとエンマはフランスへ戻ってきます。すげえなこの根性。
出産のためだったらしいですが、それなら渦中であるパリよりも、どこか違うところに行ったほうがよかったんじゃないでしょうか。ホント、他の女性達にコロされなかったのが不思議なほどです。

しかしドビュッシー本人は可愛い娘のことで頭がいっぱいだったようで、翌年から2年かけて「子供の領分」というピアノ組曲を書きました。
これは子供が演奏する曲ではなく、大人から子供、つまりドビュッシーが娘を見て形容した曲なのだとか。親バカここに極まれりってところでしょうか。
愛娘に対し、「シュシュ」=キャベツちゃんというあだ名をつけているので、多分顔か目が丸っこくて愛らしい感じの女の子だったんでしょうね。

 

1908年 エンマ・バルダックと再婚

この頃になって落ち着いたのか、やっと浮気をやめて正式に再婚しました。
作品では「子供の領分」が世間に発表された他、カンタータ(管弦楽つきの声楽曲)をいくつか書いています。

付き合った相手のうち二人が自殺しかけている、というのは何とも凄まじいですね。
ドビュッシーの写真を見ると確かにイケメンかもしれませんし、中身としてもそこまで女性がのめりこむような魅力があったのでしょう。浮気性だけど。
現代の日本人からすると「やーねあの人」みたいな感じですが、こんな感じの恋愛遍歴になるような原因がなくもありません。

 

「蝮(まむし)を産んだほうがマシだった」って?

ドビュッシーは当初作曲家ではなくピアニストを目指していたのですが、「素質はある」と言われていたにもかかわらず、二年連続で賞を取ることができなかったのです。
期待していた両親は酷く落胆し、特に母親のヴィクトリーヌは「蝮(まむし)を産んだほうがマシだった」というほどでした。それにしても蝮ってひでえ例えですね。

多分その他にもいろいろな罵倒を浴びせられたでしょうし、その辺から女性に対して普通の人とはちょっと違った価値観ができていたとしてもおかしくはない気がします。人妻ばかりと交際したのも、母性を求めてのことだったのかもしれません。

音楽の道を諦めなかったおかげで、今に伝わる名曲の数々があるわけですから、デメリットばかりでもなかった……とまで言うとひいきし過ぎですかね。

長月 七紀・記




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参考:クロード・ドビュッシー/wikipedia

 

 





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