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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

新撰組二番隊組長にして撃剣師範・永倉新八! 激動の時代を駆け抜け77歳の天寿を全う

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「剣豪」という言葉から、どんな人を連想しますか?

「寡黙」「おっかない」「頑固親父」あたりが多そうですね。
確かに現代の達人の方々は、常人にはない背筋の張りようと空気を持っていることが多いです。

しかし、彼らももちろん人間ですから、それ以外の面もたくさん持っているでしょう。
今回は過去の剣豪の中から、幕末といえば欠かせないあの組織の剣豪のお話をご紹介しましょう。

天保十年(1839年)4月11日は、後に新撰組の二番隊組長となった永倉新八が生まれた日です。

大河ドラマでは、ぐっさんこと山口智充さんが好演してらっしゃいましたね。
そのためか何となく朗らかなイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、自際の永倉はというと、藤堂高虎のように華麗な転職をしてのけた人でした。
時代によって名前を変えたこともあるのですが、ややこしくなりそうなので以下「永倉」で統一させていただきますね。

 

「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」

松前藩の江戸屋敷詰め藩士の家に生まれた永倉は、7歳で剣術を習い始めています。後に自ら「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」「俺は剣術以外に能はない」と言っていたくらいなので、おそらく幼い頃から相当のめり込んでいたのでしょう。
そのあまり、18歳で脱藩してしまいます。思い切り良すぎやろ。

このとき後ろめたかったのか、独立を示すためか名字の「長」の字を「永」に変えました。実家にはもう戻らないという決意の証だったのでしょうかね。
一度武者修行に出ましたが、再び江戸に戻ってとある道場の師範代を務めました。その後縁あって、近藤勇の道場・試衛館にやってきます。
そして新撰組の前身・浪士組結成当初から参加し、以降新撰組の主な活動にずっと参加しました。

「結成当初からのメンバー」というといかにも近藤や土方に心酔していそうな感じもしますが、永倉は違いました。他の同期も同じで、近藤たちに専横の兆しが見え始めた頃、原田左之助らと共にボスである会津藩主・松平容保に訴え出たりもしています。
これは「隊員は同志であって家臣ではない」と考えていたからのようです。確かに、元々身分に大差がない=上下関係がなかった組織ですから、本当はそのほうが正しかったんですよね。
それはそれで、社会主義的すぎて実現は難しかったと思いますが……その後の新撰組のことを考えると、結成当初に上下関係をはっきりさせたおかなかったのが最大のミスだったのかもしれません。現代でも「友人同士で会社を作ったら、上下関係とプライベートを公私混同してしまって会社も友人もダメになってしまった」なんて例がありますけども。

 

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一度脱藩した松前藩に戻り、結婚相手まで紹介されている 

戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いと甲州勝沼の戦いに参加し、その後近藤らと別れて北関東へ向かいました。が、同時期に会津若松の戦いが起きており、「会津藩降伏」を知った後は抵抗をやめ、江戸に戻っています。

ここからが彼のスゴイところで、一度脱藩した松前藩に再び迎え入れられ、結婚相手まで紹介されています。おそらく剣の腕を買われたという面が大きかったでしょうが、ちょっとでも反抗の兆しがあればできなかったでしょうから、どこからどう見ても綺麗さっぱり諦めた感じだったんでしょうねえ。
婿養子入りという形だったので、家督を継いで小樽へ引っ越したときに改名しています。この記事では「永倉」のままで呼ばせていただきます。

北海道に移った後は、樺戸集治監(刑務所兼開拓村みたいな施設)という施設のお偉いさんに招かれて、剣術の師範をしていたこともあります。
が、後に「五寸釘寅吉」こと西川寅吉という連続脱獄犯がこの刑務所から見事脱走しているので、脱走防止にはあまり役に立たなかったようです。残念。
技術が受け継がれなかったのか、永倉ほどの腕前の人物が育たなかったのか……どっちもですかね。

 

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70歳で北海道大学・剣道部を指導! 

腕前と自信、剣豪としての誇りはその後も一向に衰えず、日清戦争(明治二十七年=1894年)のときには志願兵に名乗り出ています。55歳という年齢を理由に断られてしまったのですが、「元新撰組の力は借りられないってかい」と残念そうにしていたとか。
この後70歳(!)のときに現・北海道大学の剣道部を指導したこともあるので、多分普通に戦えただろうと思われます。多分参戦していたらまた新たな伝説を作っていたでしょうね。

当時の寿命からすればおかしくはないが、70歳でもバリバリの現役だった人が55歳で老人扱いされてしまったのですから、さぞ悔かったでしょうねえ。
ただし、北大に出かけたときには体を痛めてしまったとか。じーちゃんの無理、ダメ絶対。

最晩年には小樽新聞社の取材に協力し、新撰組に関する回想録「新選組顛末記」などが出版されています。
大分年月が経った後&録音機器がない時代の口述筆記がベースなので、記憶違いや書き間違いがある可能性も高いようですが、一次史料としては申し分ないんじゃないですかねえ。それまでの時代はそういうものも珍しかったでしょうし。

また、映画が好きでよく映画館に行っていたようです。
「文明の不思議」と評しているあたり、ストーリーよりも「映像が映し出される」という事象そのものが興味深かったのかもしれませんが。
孫を連れて行くことも多かったそうですが、あるときヤクザに絡まれたときは見事撃退したとか。お孫さんはさぞ自慢だったでしょうね。元気でカッコイイじーちゃんとか最高じゃないですかーやだー!

そんな感じでまさに「生涯現役」だった永倉ですが、大正四年(1915年)77歳で虫歯による骨膜炎・敗血症により亡くなりました。
もし虫歯の治療法が確立されていたら、もっと長生きしていたかもしれませんね。

ちなみにこの年は同じく元新撰組の斎藤一(過去記事:人斬り隊長が学校の守衛さんに!? 新撰組3番組隊長・斎藤一逝く【その日、歴史が動いた】)も亡くなっていて、時代の移り変わりが感じられます。

こうして見ると、剣術の腕前はもちろん、「引くべき絶好のタイミングで引いた」人なんですね。
若いときには存分に戦い、潔く抵抗を諦めながらも自分の生きる道を定め、孫にも恵まれて穏やかな晩年を過ごしたという生き方ができた人は、古今東西そう多くはないでしょう。現代人が学ぶべき点も多いですね。

自己啓発本も良いですけれど、こういう割と近い時代の人の伝記を読むのもいいんじゃないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:永倉新八/Wikipedia 新撰組と剣豪の話/フランボワイヤン・ワールド

 

 





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