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絵・富永商太

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武田・上杉家 その日、歴史が動いた

直江兼続『直江状』をめぐる一連の騒動 徳川家康を激怒させた内容とは?

更新日:

こんな無礼な手紙は見たことがないヾ(*`Д´*)ノ" by家康 

戦争の売り方・買い方にも上手下手があります。

「下手」は言わずもがな、勝ち目のない相手に挑んだり、明らかに力不足なのに戦いを仕掛けるケースですね。
「上手」にはいろいろあると思いますが、完勝はもちろん、自分が有利な状況で戦闘を終わらせることでしょうか。
下手な人は古今東西山ほどいますが、上手な人というとごくわずかです。当コーナーで紹介した例でいえば、売るのが上手だったのはビスマルク、終わらせるのが上手かったのは児玉源太郎でしょうか。
しかし、世の中には上手か下手か判断ができかねるけれども、強烈なエピソードになったために有名な例もあったりします。

慶長五年(1600年)4月14日は、上杉家の家老・直江兼続がいわゆる「直江状」を出したと言われている日です。

直江兼続愛

直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」/wikipediaより引用

 

徳川家康が『こんな無礼な手紙は見たことがない』とキレて会津征伐を決めた」手紙ということや、兼続の肝の据わりようがわかるということで有名ですが、実は原本は現存していません。
家康がその場で破り捨てた可能性もなくはありません。写本とされるものはいくつかあり、現在知られているのは写本あるいは偽物の内容だといわれています。
そんなわけで「有名な割に存在していたかどうかがアヤシイ」手紙なわけにもかかわらず、関が原関連の話をする上では欠かせないものになっています。
では、少し時間を遡って秀吉が亡くなる直前から話を始めましょうか。

 

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領内の政治を進め、政宗を見張り、京都へ上洛・・・

兼続の主・上杉景勝は、五大老の一人として秀吉政権の重きを成していました。
しかし、上杉家の領地は一貫して雪国。さらに五大老の中で一番領地が遠かったのもまた事実で、何回も上洛を言いつけられると領内の政治がはかどりません。

そんなわけで上洛の合間を縫って内政を進めるようなアホな状態に加え、秀吉存命中からアヤシイ動きを繰り返していた伊達政宗ら東北諸大名&関東の家康を見張らなくてはいけませんでした。現代的な感覚でものすごく乱暴に例えると、東北の人達に「仕事も家事も育児も完璧にやってね! あと夏の間は京都に単身赴任だからよろしく!」というようなものでしょうか。

常人だったらちゃぶ台を投げつけたくなるところですが、景勝は寡黙な人だったからなのか、あるいは雪国生まれゆえの我慢強さからなのか、少なくとも表向きキレることはありませんでした。

その代わり?に、こうした状況に(#^ω^)していたのが兼続です。

あの上杉謙信の甥っ子にして五大老の一人・上杉景勝さん/wikipediaより引用

あの上杉謙信の甥っ子にして五大老の一人・上杉景勝さん/wikipediaより引用

 

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秀吉が亡くなり崩れるバランス 東国にも不穏な空気が・・・ 

直江状(の写し)でも上記の点、特に「当地は年の半分は雪に覆われて何もできないというのに、しょっちゅう上洛しろと言われて困っている」(意訳)ということはかなり強調されています。

ただ、少なくとも秀吉存命中はそうした不満を表に出すことはありませんでした。小田原征伐での物量作戦を見ていますし、秀吉に逆らったところで他の大名に寄ってたかって潰されるのがオチですからね。
そうなれば近所の政宗や家康は、「俺は太閤様の忠実な家臣でーす!!」というポーズをとるために喜んで攻めてきたでしょう。特に政宗にとって、上杉家が移封された会津はかつて数々の苦難の上に一度手に入れた土地でしたから、待ってましたと言わんばかりに取り返しに来ることは明らかでした。
そんなわけで、東北周辺の安定は秀吉の命によって保たれているも同然だったのです。

当然、秀吉が亡くなればその平穏は崩れます。
秀吉が亡くなってからの家康の専横状態には不満を抱く人も多く、また諸大名は秀吉には屈服させられたものの、家康とは真っ向から戦ったことがない人がほとんどでしたから、上杉家ではケンカを売るなら今だと考えたのでしょうね。
その割には根回しが甘い気もしますけども、「石田三成の挙兵は兼続と呼応していた」なんて説もありますからその辺は置いておきましょう。今後何かわかるかもしれませんし。

秀吉存命の頃はまだ保たれていたが…(絵・富永商太)

秀吉存命の頃はまだ保たれていたが…(絵・富永商太)

 

上杉の国内整備・軍備を家康にチクッたのは堀秀治だった

そんなこんなで秀吉の葬儀が終わった後、景勝は会津に戻って領内の整備に取り掛かります。でも、これも見方次第で内政のためとも軍備とも取れるものばかりでした。そりゃ今までできなかったことをやろうとするのは当たり前ですよね。

まず、将来会津若松城が手狭になると考え、領地のほぼど真ん中で築城を始めました。また、道を整備したり橋をかけたりして、領内の交通を便利にしています。
他にも武器を集めていたりするのでこれは弁明のしようもありませんが、領内の整備についてはむしろ領主として当然のこと。しかも戦に備えるなら国境に城を作るべきなのに、ど真ん中に作ったところでさして意味はありません。
当初から防衛戦を念頭に置いていて、最後の最後までど真ん中の城で全員討死覚悟で戦うというなら話は別ですが。

こういった上杉家の動きを家康にチクったのは、上杉家の旧領・越後に入った堀秀治という大名でした。交代のときにいろいろ揉めたため、上杉家のことを日頃からよく思っていない人物です。
揉めた原因は、本当は残しておかなければいけなかった分の年貢を上杉家がごっそり持って行ってしまったからなんですけどね。

ちなみにこれより数年後、西のネタ大名・細川忠興と昨年の大河の主役……の息子・黒田長政の間でも似たようなトラブルが起きています。そのせいで忠興は武力でもって年貢を取り返そうとするわ、「黒田家のヤツには礼儀尽くす必要ねーから!」という実に大人気ない指示を家中に出すわというこじれっぷりになりました。
堀家と上杉家の間も、感情的には似たようなものだったと思われます。

 

「ありのままに書いたけど多少の無礼は許してね☆」

というわけで堀家からのチクり+日頃の行いのことを突っ込む手紙が家康……ではなく、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶から上杉家に届きました。
この時代によくあることで、聖職者なら中立的な立場だろうということで外交官役を僧侶にお願いすることが多かったので、その一例です。
実際の手紙はお坊さんらしくとても丁寧なのですが、平たく言うと「堀家からの報告があって家康が怪しんでるから、上洛して弁明したほうがいいよ! 誤れば許してくれるってよ!」という感じです。

これに対する返事が「直江状」と呼ばれているものです。
箇条書きのくせに承兌から来た手紙の三倍くらいの長さがあるという、その時点で慇懃無礼さがプンプンの返書でした。これまたテキトーにまとめるとこんな感じになります。

「今まで何回も上洛させられて内政が滞ってたから、今真面目にやってるところなんですけど?
仕事してるのに疑われるってすげえムカつくんですけど?
道や橋の整備は領民のためだし、これが戦支度だって言うんなら敵の手助けをするようなもんじゃないですか。そんなバカなことしないしwwwwww
弁明しろ誓書を出せって言うけど、今まで他の家との誓書を簡単にほっぽらかしてきたくせによく言いますねw
うちの殿は謀反する気なんて全然ないのに、そんなことを疑うほうが怪しいんじゃないですか?
この手紙は家康サマに見せるってことだから、ありのままに書いたけど多少の無礼は許してね☆」

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

 

政宗との逸話からも直江状の真意がうかがえる?

実際はもちろんもっと丁寧に書いていますが、多分兼続の他のエピソードからすると気分的にはこんな感じで間違っていないかと。

というのも、「兼続がイヤミを言っていた」という話がいくつかあるのです。
上記の通り上杉家と伊達家が水面下でピリピリしていたことを反映してか、政宗との逸話で二つもイヤミを言っています。

一つは、大阪城で大名とその側近が一堂に会したときのこと。
政宗の領地をはじめ、東北一帯は金が出ることで有名でしたから、「いっちょ自慢の小判を見せてもらえませんか」という話になりました。
政宗は自信満々で小判を取り出し、居並ぶ大名へ順番に見るよう勧めます。大名達は手に取っては「これはすごい」「さすがですな」とお世辞か本気かわからんコメントをしていきました。
そして兼続の番になったのですが、何故か彼は直に手に取らず、扇子を広げた上でぴょこぴょこひっくり返すという奇妙なことをし始めました。

これを見た政宗、「大名じゃないからって遠慮しなくていいぞ。直に手に取って見ればいい」と気遣い半分・自慢半分で言ったのですが、対する兼続の反応がスゴイ。
「私は武士なので、このようなキタナイモノを直に手に取るわけには参りません^^」と言ってのけたのです。
本当にそう思ってた可能性も高いですが、このタイミングでこんなことを言ったら、政宗へも他の大名にもイヤミとしか取れませんよねえ。
兼続に関する本の中では「清廉潔白なことを示すエピソード」として紹介されていることが多いですが、その場の雰囲気を想像すると裸足で逃げ出したくなります。

トラブルは売るのも買うのも大好きです、政宗です(絵・富永商太)

トラブルは売るのも買うのも大好きです、政宗です(絵・富永商太)

 

「戦場から逃げる後姿しか見たことがなかったのでwww」

もう一つも実は政宗関連です。
これは江戸時代のもので、あるとき江戸城の廊下で兼続と政宗がすれ違うということがありました。現代の会社でも、知り合いや上司とすれ違うときには目礼するなり「お疲れ様です」と一声かけるのが礼儀ですよね。

しかし、兼続は大名でもない一家臣だというのに、政宗を無視して通り過ぎたのです。
当然政宗は「無礼ではないか」と咎めましたが、これに対する反応が「ああすみません、戦場から逃げる後姿しか見たことがなかったのでwww」というものでした。
このとき政宗の右腕・片倉景綱(過去記事:人気急上昇中の片倉小十郎と伊達政宗のほんわかしないエピソード集【その日、歴史が動いた】)がいたとかいなかったとかいわれているのですが、もしいたらもっとすごい口論になってたかもしれませんねえ。冷静な人なので刃傷沙汰にはならなかったでしょうけども。

というか、この二つの逸話が事実であれば顔を知らないわけはないはずですから、両方とも相当なイヤミですよね。
そしてどっちの話でも影の薄い景勝ェ……。

伊達政宗の右腕・片倉景綱/wikipediaより引用

伊達政宗の右腕・片倉景綱/wikipediaより引用

まあそれはともかく、そんな感じで爽快な機転やユーモアというよりただのイヤミに近い言動が多かったらしいので、直江状があったにせよなかったにせよ、その内容と似たような態度を兼続が取り続けたのはおそらく事実でしょう。

家康は家康で最初から上杉家をよく思っていない上、タダで手駒にできるとも思っていなかったからこそ武力を使ったんでしょうし、腹の黒さではどっこいどっこいですかね。

大名や軍人、政治家といった国を担う仕事の人は、真っ白ではいられないとは思いますけれども。にしたって方向性が(´・ω・`)

長月 七紀・記

【関連記事】もう愛なんて信じない! 直江兼続の【兜】に秘められた恐ろしい神様

直江兼続愛

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参考&画像:直江状/wikipedia 直江兼続/wikipedia 上杉景勝/wikipedia

 

 





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