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織田家 その日、歴史が動いた 合戦

斎藤道三が殺された長良川の戦い されど首謀者の義龍も早死してしまい、その息子龍興も……

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戦国時代には「他人を巻き込んだ盛大な親子ゲンカ」がそこかしこで起きていました。
統計を取ったわけではありませんが、少なくとも何割かの戦はそういった類の争いだったと思われます。親子だけでなく、祖父と孫やおじ・甥なども含めればかなりの数に登るでしょう。

その中でも有名どころの一つ、弘治二年(1556年)4月20日に起きた【長良川の戦い】は戦国好きならご存知のハズ。
織田信長の舅・斎藤道三が息子・義龍に倒された戦い」ですので、もはや説明すべきことのほうが少ない気がしますが、前後の事情からおさらいして参りましょう。

美濃のマムシこと斎藤道三。戦国三大梟雄の一人です/wikipediaより引用

美濃のマムシこと斎藤道三。戦国三大梟雄の一人です/wikipediaより引用

 

マムシは本物の父ちゃんじゃない?いや本物?やっぱり違う!

コトの発端は、義龍が父を疑いだしたことにあります。
以前もお話したことがありますが、義龍の母・深芳野 (みよしの)は、道三の主君だった土岐頼芸から譲られた女性でした。
彼女はこのときすでに頼芸の子供として義龍を身ごもっており、道三の元に来た後で生んだ……という話を、誰かが義龍に吹き込んだのです。

もちろん反対意見もあり、「いやいや、道三様はもっと早くから深芳野と通じていました。だから義龍様は間違いなく道三様の御子です」と言う人もいました。

しかし、義龍にとっては前者のほうに信憑性があるように思えたのでしょう。そして道三も強くは否定しなかったようで、義龍の中で「道三は実父の仇」という考えは揺るがざる事実になっていきました。
このへんについては後世の創作の可能性もあるようですが、いずれにせよ義龍が道三のことを殺したいほど憎く思っており、穏便に済ませるつもりは微塵もなかったということだけは事実かと。

斎藤義龍の思い込みだったのか?それとも……/Wikipediaより引用

斎藤義龍の思い込みだったのか?それとも……/Wikipediaより引用

 

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道三に贔屓されていた弟たちを殺して挙兵

道三も道三で、義龍への態度は温かいとはいえませんでした。
一応家督を譲りはしたのですが、道三は嫡子である義龍よりも次男以下を気に入っており、一時は義龍を廃嫡しようという動きもあったとか。これも「一説には」のレベルなのですけどね。
これに気付いた義龍が弟達を殺し、いよいよ父へと兵を挙げ、長良川の戦いに至ったというわけです。

既に家督を譲っている上、美濃を取ったときもだまし討ち同然でしたので、道三に味方した兵や周辺地域の武士はほとんどいなかったといわれています。

一方、義龍には土岐家の旧臣たちがつき、開戦の時点でおおよそ7倍もの兵力差があったとか。
川を挟んでの戦はただでさえ難しいというのに、これほどの兵力差があっては道三が勝つ見込みはゼロでした。

岐阜城天守閣から眺めた長良川・鵜飼い大橋(現在の岐阜県岐阜市)

 

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戦後、義龍は頭を丸め内政に勤しんでいたが…

信長はこの知らせを聞いて急ぎ兵を出しました。

が、舅との連携を取る前に義龍軍が道三の本陣に到達。何かと粘ったものの、もみあう中で道三は首を討たれ、義龍の勝利となりました。
ときに蝮は63歳。当時の寿命的にそう長生きできる年ではなく、義龍は無理をして討つ必要はなかったことになります。それでも力尽くで事を収めようとしたあたり、やはり義龍の恨みようがうかがえますね。

とはいえ義龍は勝って大喜びしていたわけではなく、父の首を確かめた後、頭を丸めています。
その後は長年の内乱で荒れた美濃の国を立て直すべく、内政に勤しみました。重臣の意見を容れるため合議制を設け、家臣の不満や不公平さの是正に努めたといわれています。

こういった働きが朝廷にも認められて官位をもらいましたが、長良川の戦いから5年後、35歳の若さで急死してしまいました。

戦国ダメ武将の一人として知られる斎藤龍興/Wikipediaより引用

戦国ダメ武将の一人として知られる斎藤龍興/Wikipediaより引用

 

跡を継いだ龍興はどうにもならない凡将だったので

本当に突然のことだったらしく、家臣団は右往左往状態。跡を継いだ龍興は何をするにも後手後手にまわるような人でしたので、斎藤家は一気に傾いてしまいます。

それでも、竹中半兵衛(重治)のようにお家を支えようとしてくれた人もいたのですが……あの稲葉山城乗っ取り事件(過去記事:竹中半兵衛を有名にしたアノ伝説 「稲葉山城乗っ取り事件」は450年前の本日勃発! 【その日、歴史が動いた】)のようなダイナミック諫言をされても反省せず、信長に滅ぼされることになります。

稲葉山城乗っ取りで有名な竹中半兵衛さん/Wikipediaより引用

稲葉山城乗っ取りで有名な竹中半兵衛さん/Wikipediaより引用

龍興自身は長島本願寺へ逃げた後、越前の朝倉家へ身を寄せたそうですが、その朝倉家と織田家との戦いに出陣した際やっぱり討死しました。
美濃を失ったとき20歳、討ち死にしたのが26歳だったそうですから、道三→義龍→龍興の順でどんどん寿命が短くなっていったことになりますね。

「親の因果が子に報う」という言葉がこれほど当てはまる家もそうそうないのではないでしょうか。
子供に残すものは、可能な限り良い思い出とプラスの財産だけにしておきたいですね。

長月 七紀・記

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参考:斎藤道三/wikipedia 国史大辞典





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