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イギリス その日、歴史が動いた

大英帝国を躍進させた世界一の女帝ヴィクトリア 在位なんと63年7ヶ月!

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世界史上でよく出てくる国には、だいたい象徴となる王様がいますよね。
フランスであればルイ14世や16世、多少意味を広げれば中国の三国時代の君主たちも入るでしょうか。
本日はその中でも、今日に至るまで各国の地名に名を残しているあの人のお話です。

1837年(日本は江戸時代・天保八年)、イギリス女王として名高いヴィクトリア女王が即位しました。

といっても、歴代最長在位年数を誇るだけあって、細かいことまで書いていくとキリがありません。
そこで、今回は彼女が何歳のときにどんな事件が起きたのか、いわゆる「ヴィクトリア朝」のダイジェスト版としてお届けします。

本当は文化や庶民のことまで書きたいところですが、それもキリがないのでまたいずれ。……いつになく長いですが、これでもかなり端折っている上、途中まで書いたのを全部まっさらにして書き直したのでお許しくださいm(_ _)m

美しき大英帝国の母・ヴィクトリア/Wikipediaより引用

 

◆1819年 誕生

ヴィクトリアは、イギリス王室の父・ケント公とドイツにあった小さな国のひとつ・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国出身の母の間に生まれました。
しかし1歳にもならないうちに父と死別し、母であるケント公妃の過干渉を受けて育ちます。ここから即位するまで、ヴィクトリアには私室が与えられず、母と一緒に寝ていたほどです。
どんだけ子供に依存してるんだよ……といいたいところですが、当時の情勢的にヴィクトリアが将来玉座に着く可能性が高かったので、ケント公妃は彼女を傀儡にするため、小さな子供のように扱い続けたと思われます。
ヴィクトリアは生涯理性よりも感情で判断することが多かったのですが、もしかしたらこういった生まれ育ちが影響してしまったのかもしれません。

 

◆1830年 伯父・ウィリアム4世が即位、ヴィクトリアが暫定王位継承者として扱われるようになる

ここからヴィクトリアはいわゆる「王太子」扱いを受けるようになっていきます。当時この言葉は使われていませんが、まあイメージですイメージ。
将来の女王にふさわしい文化教育が強化され、特に絵が好きだったといわれています。現在もイギリス王室のロイヤル・コレクションの中に何点か残っていますね。
ヴィクトリア本人も徐々に「次期女王」としての自覚に目覚め、家庭教師の下で良い人間になるよう努力を重ねました。

が、伯父のウィリアム4世はヴィクトリアのことは認めていても、過干渉を続けるケント公妃のことは大嫌いだったので、二人の間に火花が散ります。
どのくらいウィリアム4世がケント公妃を嫌いだったかというと、自身の誕生日式典で「私はケント公妃ではなく、ヴィクトリアに直接王位を渡したいのだ。神よ、どうか我が命をヴィクトリアの成人まで長らえさせたまえ」と言っているほどです。もちろん直接名指してはいませんが、視線その他ではっきり示したと思われます。
それは本人たちにも十分伝わっており、ケント公妃はキレて退席したとか。まだかよわい女性だったヴィクトリアは泣き出してしまったそうです。後々の気丈っぷりを考えると信じられなゲフンゴホン。

ヴィクトリアの母・ケント公妃/Wikipediaより引用

 

◆1837年 ヴィクトリア女王即位

ウィリアム4世はめでたくヴィクトリアの成人まで生き、お祝いとして生活費を大幅に増額すると同時に、母親から独立することを勧めました。が、母に反対されてヴィクトリアはこれを断っています。
というか、独立しようとする相手に相談したらダメじゃね?(´・ω・`)

それに気落ちしたのか、ウィリアム4世はその翌月に崩御し、予定通りヴィクトリアが王位を継承しました。
午前六時にその知らせを聞かされたヴィクトリアは、その日の午前中には大司教や首相・メルバーン子爵との引見を行ったり、枢密院会議を開いており、貴族たちに新たな女王として認められます。

ここからはさすがに母の同席なしで動くことが多くなりました。当たり前のことですが、即位以前いかにケント公妃が彼女に干渉していたかがわかるというものです。
母と共にデカい顔をし続けていたコンロイという家臣についても同様で、その代わりにずっと家庭教師をしてくれていたレーツェンという女性を、相談役として重んじました。自室の隣にレーツェンの部屋を用意しているほどです。
ヴィクトリアにとって、私的な場に踏み込む人間は心を許せる人物でなければならないという信念があったようなのですが、これが後々トラブルの元になります。

 

◆1839年 ロバート・ピールとの対立、寝室女官事件

ヴィクトリアは即位してからしばらくの間、ときの首相・メルバーン子爵を父とも思って何かと頼りにしていました。
が、彼は自身の政治的求心力が低下していることに気付き、自ら辞表を提出してしまいます。
まだ若いヴィクトリアにとって、老練な相談役がいなくなることはとても大きな痛手でした。そのため、メルバーン子爵に代わってナポレオン戦争の英雄であるウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーを頼ります。が、老齢のため断られてしまいました。このとき60代後半でしたから無理もありません。

ヴィクトリアはウェリントン公の推薦したロバート・ピールを相談役にしました。が、「これからもメルバーンに相談しても良いか」と聞いたときに大反対されたため、ピールとの仲がこじれてしまいます。
ピールは形式を重んじる傾向があり、女王の側近く仕える女官たちの人事異動も進言したが、今度はヴィクトリアが強く反対しました。
ピールは女王の周辺は自分と同じ政党に連なる者でなければならないと考えていましたし、それが慣習だったので当然のことと思っていたのです。

しかし、ヴィクトリアは寝室に立ち入るような女官は私的に信頼できる者でなければならないと考えていて、政治とは関係ないとも思っていました。
これでは話が平行線になるばかりですよね。

何日もこの件で揉めているのを見かねて、ウェリントン公が双方をなだめに訪れたが、ピールは譲らず、ヴィクトリアは「女官まで戦力にするなんて、ピールはよほど力がないのですね」とにべもなく突っぱねたそうです。
ナポレオンを破ったほどの老将軍が引き下がらざるを得なかったといいますから、よほどの剣幕だったのでしょうね。ちなみにヴィクトリア19歳、ウェリントン公69歳のときの出来事です。

結局ピールが折れて、メルバーン子爵を首相の地位に、寝室の女官もそのままに留め置くことになってこの件は落ち着きました。
後にこれは「寝室女官事件」と呼ばれるようになるのですが、マスコミは「女王はまだ独り身だから気性が荒いんだ。早く結婚した方がいい」と書き立ていたとか。そういう問題なんですかね……?

メルバーン子爵/Wikipediaより引用

 

◆1840年 アルバートとの結婚と国内事情の悪化

とはいえずっと前から結婚相手の候補者はいました。母方のいとこにあたる、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルベルト(英語読みアルバート)です。
直接会ったこともあり、互いの印象も悪くなく、親族一同に推進されていたが、それがヴィクトリアの気に入らず、結婚はのびのびになっていました。

しかし、しばらくぶりに会ってより美しく教養高い男性になっていたアルベルトにすっかり惚れ込み、国王である彼女の方からプロポーズしてめでたく結婚します。
アルバートは約167cmだったそうなので、ドイツ人にしては小柄なほうでした。しかしヴィクトリアも約145cmとかなり小柄だったので、ちょうど良かったようですね。

夫のアルバート/Wikipediaより引用

この結婚により、ヴィクトリアは妻として、また母として恵まれました。後々、子女をヨーロッパ各国の王室や皇室に送ったため、ヨーロッパの祖母とも呼ばれるようになります。
ただし、彼女が血友病の因子を持っていたため、それもヨーロッパの上流階級に広まってしまったのですが……有名なのは、彼女のひ孫にあたる最後のロシア皇太子アレクセイですね。

が、このあたりからのイギリスは「飢餓の40年代」に入り、庶民はその日の生活にも困るようになっていました。
また、当時イギリス領だったアイルランドでは、ジャガイモ飢饉が頻発し、人口の20パーセントが失われます。正確な統計は出ていませんが、数にして150万人が餓死もしくは国外脱出したといわれています。
ジャガイモ飢饉前の人口は約800万人だったそうなのですが、2014年現在でもアイルランド全島の人口は約640万人程度なので、いかにこの飢饉で人が減ったかがわかるというものです。

この二つは両方とも「穀物法」という法律の悪影響がなせる業だったのですが、ヴィクトリアも議会も有効な手打つことはできませんでした。政争も激しい次期でしたので、そもそも考えてなかったかもしれません。この時代の王侯貴族なんてそんなものですね。

 

◆1851年 第一回ロンドン万国博覧会

その一方で、イギリスの技術と存在感は世界の中でも高まっていました。
万博はその象徴ともいえるもので、王配アルバートが熱心にプロデュースし、ヴィクトリアも会期中何回も訪れています。収益も大きく、そのお金を使って道路や博物館、演劇場などが作られました。
これは下衆の勘繰りですが、1853~1856年のクリミア戦争への介入や、1857年に植民地インドで起きた大反乱の鎮圧にもこのお金が使われていたかもしれませんねえ。

ぶっちゃけた話、ここまでの経緯はこの映画を見たほうが早かったりします。

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◆1861年 王配アルバート薨去

ヴィクトリアの人生で最も影響を及ぼしたのが、愛する夫に先立たれたことでした。
1850年代後半からだんだん体調を崩していた彼は、長女ヴィクトリアが遠いプロイセンに嫁いだことや、王太子エドワードの不出来さで心身ともにかなりのストレスを感じていたのです。
しかも豪雨の中陸軍士官学校の竣工式に出たり、ケンブリッジ大学の寮に入っていたエドワードを直接叱るためにケンブリッジを訪れたりと、無茶を重ねました。
さらに悪いことに、ヴィクトリアが信用していた医者がヤブ医者にもほどがある人物だったため、アルバートの病状はますます悪化してしまいます。
さすがにいつまで経っても治らないので、後になってから別の医師に診せたのですが、既に手遅れの腸チフスだということがわかっただけで、アルバートはその二日後に亡くなっています。

1854年のアルバートとヴィクトリア/Wikipediaより引用

 

ヴィクトリアの悲しみは深く、その後10年以上喪服に身を包み、公の場にもほとんど出てこなくなってしまいました。あまりに服喪期間が長いので、王室派のマスコミでさえ批判的な記事を書いているほどです。
この時期にアルバートの馬係だったジョン・ブラウンとの関係が怪しまれているが、事実は定かではありません。「かつては老将軍を下がらせたほど気丈な女王が、夫の死によって腑抜けになって愛人を囲った」というのはいかにもゴシップらしいですしね。
ただ、二人とも既にいい年だったのでそのうちネタにならなくなりました。マスコミっていつの時代も現金ですよね。そういう商売ですけれども。
また、アルバートへの追悼の一つとして「ハイランド日誌」という回顧録を出しており、これについての評判は上々でした。共和主義者からも「女王であろうと労働者の妻であろうと、夫を亡くした悲しみは代わらない」と共感されています。

内政にはほぼ無関心に近くなってしまったヴィクトリアですが、完全に国王としての責務を忘れたわけではなく、この間に起きた外国の事件(イタリア統一やアメリカ南北戦争など)には介入しないよう命じています。ただし、ヨーロッパ全体が危うくなるような件だけは積極的に介入しろと言いつけ、かつての気丈ぶりを見せました。

ヴィクトリア女王と馬係ジョン・ブラウンが描かれた絵/Wikipediaより引用

 

◆1875年 コレラ防止のため、公衆衛生法で入浴が奨励される

これはヴィクトリア個人とはあまり関係ないのですけど、革新的なことなのでついでに。
このあたりの時代まで、ヨーロッパでは「水を浴びると病気になる」というのが常識でした。ローマ帝国時代に公衆浴場で病気になる人が多かったからです。なんでかというと、当時の公衆浴場はR18的なことになるのも珍しくなかったので、その辺の病気が流行ってしまったのです。日本人からすると「何でや! 風呂関係ないやろ!!」と言いたくなりますね。
イギリスは1840年代あたりから貴族がバスタブを使い出しているので、まだマシなほうかもしれませんが。

 

◆1876年 インド女帝即位

1857年のインド大反乱のとき、イギリスは東インド会社にほぼすべての責任を押し付けて解決したのですが、ヴィクトリアは「再び反乱を防ぐためには、【慈悲深い君主】というレッテルを自らに貼り付けることが有効だ」と考え、そのように振舞いはじめました。実際は(禁則事項です)。
そして娘がドイツ皇太子に嫁いだことによって、将来自分よりも格上の称号である「皇后」を名乗るようになると気付いたため、自分も「インド女帝」の名がほしいと考えるようになりました。肩書きにこだわり始めるあたりがなんというかもう、アレですよね。

とはいえ、ヴィクトリアに対するインドの人々の印象は悪くなく、「母上」「親愛なる陛下」と呼ばれていました。他の植民地でも似たようなものだったそうなので、彼女のイメージ戦略は成功していたといっていいでしょう。
実際にも植民地のお偉いさんやその子息に教育を施したり、名前を与えたりと、他の国に比べればまあ温情があるほうでした。

 

◆1887年 在位半世紀記念式典ゴールデン・ジュビリー
◆1897年 在位60周年式典ダイヤモンド・ジュビリー

この二つは盛大に行われ、各国の国王や王族、重鎮が出席しましたが、老いと共にヴィクトリア個人の影響力は衰えていきました。

これまた彼女に直接関係はありませんが、この頃(1888年)に世界史上屈指の残虐事件・切り裂きジャック事件が起きています。
ヴィクトリアは「夜に婦人が襲われているのだから、一人暮らしの男が怪しい」と主張していたそうです。ヴィクトリアの孫であるクラレンス公アルバートが容疑者になっていた時期もありますが、現在は他の被疑者が有力視されているため、否定されています。おそらく彼女には知らされていなかったでしょうね。
ちなみにこの事件については女性犯人説もありますが、当時は女性による連続殺人事件も珍しくなかったからなのだそうで。
そういった意味では、「大英帝国」の影を象徴する事件でもありますね。

 

◆1901年 崩御

ヴィクトリアは80代に入ってさすがに体調を崩しがちになりましたが、この次期は南アフリカでの戦争(ボーア戦争)によってイギリス軍にも死者が多数出ていたため、退位はせず仕事を続けていました。日記の中では多少弱音を吐くことはあったものの、それがわかったのはおそらく死後のことです。
崩御が近いと感じ取った医師たちは、各国にいるヴィクトリアの子女へ急いで知らせを出しています。孫であるドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世も自国の式典を放り出してまで駆けつけました。
異国の皇帝がそこまでするというのは異例のことですが、ヴィルヘルム2世は日頃からヴィクトリアのことを祖母として慕っていたそうなので、イギリス側からも特別扱いを受けています。

ヴィクトリアは死の前日「私にはまだ、やらなければならないことが残っているのに」と娘の前で泣き崩れたそうです。
全く関係ないですが、大河ドラマ「北条時宗」のラストで似たような台詞があった気がしますね。まさか元ネタではないでしょうけれど。
ヴィクトリアはその翌日、枕元の皇太子エドワードの名を呼んで数時間後に亡くなりました。81歳でした。

1898年のイギリス王室四代。女王ヴィクトリア、皇太子バーティ(エドワード7世)、孫ヨーク公ジョージ(ジョージ5世)、曾孫エドワード王子(エドワード8世)/Wikipediaより引用

 

彼女の死後、不出来と思われていたエドワードが王位を継ぎましたが、翌日の枢密院会議で彼は、自らの王名にファーストネームの「アルバート」を使わないことを表明しました。
その理由は、「誰もが父を思い出せるように」だそうで。
この他にもまともになっていたであろう事績はいろいろあるのですが、息子の成長の証とも言えるこの発言を、ヴィクトリアもどこかで聞いていたかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:ヴィクトリア (イギリス女王)/Wikipedia





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