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織田家 その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代 諸家

足利義昭とは? 信長に奉じられ、そして京を追い出され、結構長生きした室町幕府のラストショーグン

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盛者必衰は世の習い。
とはいえ、滅びるほうからすれば「やられてたまるか!」と踏ん張りたくなるのもまた道理です。

日本の歴史上でもさまざまな栄枯盛衰がありましたが、やはりドラマチックなものとさほどでもないものがありました。
例えば、源平の戦いは、双方が元は皇室に連なる家同士であり、武家政権の確立という別の大きな出来事もあいまって、何かと忙しい歴史の授業でもかっ飛ばすわけにはいかない出来事ですよね。

しかし、対立しあう勢力のうち、一方がザk……もとい、あまりにも力の差があると「ハイ、この年に○○が滅ぼされました」と割愛されてしまうわけで……。
本日はその一例である、あの人が中央から追われたときのお話です。

天正元年(1573年)7月18日は、槙島城の戦いで足利義昭が織田信長に降伏し、実質的に室町幕府が滅亡した日です。

特に歴史が好きな人でもなければ「義昭が京都から追い出されて室町幕府が終わりました」ということは覚えていても、本能寺の変より9年も前だったということは覚えていないですよね。

当初、信長は義昭を京に奉じるほど協力していたのに、一体なぜこのような結末を迎えてしまったのでしょうか。

イラスト・富永商太

イラスト・富永商太

【TOP画像】足利義昭/Wikipediaより引用

 

兄の義輝が殺され、当主となったが、京都に近寄れない

話はここから5年前、永禄十一年(1568年)にさかのぼります。
兄の十三代将軍・義輝が暗殺されたため、出家の身から還俗して足利家当主となった義昭でしたが、その頃はおちおち家に帰ることもできませんでした。兄をブッコロした【ボンバー松永】こと松永久秀などの連中が京都におり、危険極まりなかったからです。
そこで、あっちこっちの大名を頼りまくり、最終的に行き着いたのが、当時岐阜城に本拠を移したばかりの織田信長です。

おそらく信長としては「幕府なんぞあっても役に立たんからイラネ」と思っていたでしょうが、義昭の警護として京都への道筋をつければ、「十五代将軍のお通りである! 道を空けい!(でないとブッコロす)」という大義名分が立ちます。
そのため信長は義昭を奉じる形で上洛しました。

そしてめでたく京都に戻ることができた義昭、感謝感激して「褒美は副将軍が良いか? 名門の家督が良いか? 今なら我が家の家紋もおまけするぞよ」(※イメージです)と信長にもちかけます。
が、既存の権威なんぞ鼻で笑っていた信長は、「では家紋だけいただきましょう」といって、他の地位をもらおうとはしませんでした。

危険だけど憎めない、戦国一の自爆キャラ・松永久秀/Wikipediaより引用

 

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義昭「信長父さん!ありがとう!!!」

しばらく両者の仲は良好で、義昭が京都で襲われたとき、信長は岐阜からわずか二日で駆けつけたこともありました。これがもし男女の仲だったら「エンダアアアアアアアアア」が流れてきてもおかしくなさそうなシチュエーションですね。
ちなみに当時、岐阜から京都までは普通三日かかったらしいのですが、真冬に大雪の中をすっ飛ばして進んだために、信長の配下に凍死者が数人出たそうです。ひでえ。

ついでに言うと、京都に残っていた光秀や近所から駆けつけた浅井長政などの奮戦により、信長が着く前に戦は終わっていました。凍死した人が浮かばれなさすぎる。

さらに御所の建物を整備し、名実共に室町幕府を再興させてくれた(ように見えた)信長に対し、義昭は「これからは父とも思って遇するぞよ」と言っています。

養子入りしたわけでもないのに、三歳しか変わらない相手を父親扱いというのがスゴイですね。しかも他のお偉いさんと相談して決めたそうですから、もうどこからツッコんでいいのか困るほどです。

 

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要望書を出されてブチ切れ! 信長包囲網じゃあああ!

しかし、将軍の位にホクホクするだけで、一向に国を良くしようとするでも、各地の戦乱を収めようとするでもない義昭に対し、信長はだんだん焦れてきました。
朝廷も「信長は強いから、義昭に構わず武力を行使して戦乱を治めておk」というお許しを出してくれましたし、もはや義昭を大事にしておく必要がなくなったのです。

そこで信長は、義昭に「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)という要望書を出しました。二回に分けて出されているのですが、だいたいの意味としては「俺が仕事をしますんで、ちょっと引っ込んでていただけますかね」という感じです。
最後に「平和になったら儀式をやっていただきますんで、そのときはよろしく」と書いてあるのは、体裁を整えたのか、それとも本心だったのか、はてさて。

このときには受け入れた義昭でしたが、信長からさらに厳しい意見書が出されたため、「もう我慢ならん! 信長を討て!!」という命令を各地の大名に下します。
これがいわゆる”信長包囲網”です。

 

京都焼き討ちの噂がたちまち広まり

包囲網は、たしかに織田家を窮地に陥れたかのように見えました。実際、信長自身もかなり肝を冷やしたでしょう。

しかし、織田家は冷静に各個撃破を行い、さらに最大の勢力だった武田信玄も亡くなったことで、包囲網はアッサリ瓦解してしまいます。
義昭は慌てて二条城の戦備を進めますが、その間に信長から「娘を人質として差し上げますので、和睦していただけませんか」と、あくまで低姿勢な申し出がありました。

残念なことに、信長に対して不信感を強めていた義昭は、これを拒否。対する信長の返事は「なら京都焼きますけどいいんですね^^」(※イメージです)というものでした。こええ。

この噂は瞬く間に京都に広まり、宣教師ルイス・フロイスによって「京都の民は泣きながら家財道具を持って逃げようとしている」(超訳)と記録されています。この時点で、将軍の権威より信長の実力のほうが恐れられていたということですね。
なまはげか。

当時の詳細が記されたルイス・フロイス『日本史』の目次/Wikipediaより引用

 

御所は焼かずにお仕置きよ~ん♪

そして天正元年の2月、ついに信長は兵を動かしました。
まずは岐阜から琵琶湖までの道を確保して引き上げたものの、そのタイミングで義昭も「よろしい、ならば戦争だ!」と、松永久秀と愉快な仲間たちを率いて兵を挙げたのです。
……かつて自分の兄を殺した連中を頼っているあたり、なりふり構わないというか他に人材はいなかったのかとかいろいろツッコみたいところですね。義輝は化けて出てもいい。

一ヵ月後、信長はいよいよ義昭を倒すため京へ向かいます。
布陣が済んだ後、真っ先に朝廷へお金と手紙をわたし、「ちょっと騒がしくなりますがご安心くだされ」と告げております。
また、建前としては義昭のほうがエライので、一度は頭を下げて和睦を申し出てもいました。たぶん義昭が断ることも見通していたのでしょうね。

上記の通り既に京の住民には「信長に焼け出されるぞー!」ということが知れ渡っていたので、信長へ必死に助けを求めました。
信長は「庶民を巻き込むのは俺の趣味じゃない」と考えてか、下京(しもぎょう。京都の南側)については焼き討ちを中止しましたが、北半分である上京(かみぎょう)は許しませんでした。上京には幕府に味方する商人などがたくさん住んでいたからです。
これについてもフロイスが記録していまして、「最後の審判の日が来たかのようだ」と書き残しています。

当時の御所は上京の北寄りにあったのですが、よくこれで御所が焼けなかったものですね。この後、ときの皇位にあった正親町天皇が和睦するよう双方に命じていますので、たぶん御所ごと無事だったんでしょうし。
余談ですが、信長でさえここまで気を使った御所に鉄砲ぶちこんだ幕末の長州藩ってやっぱりぶっ飛んでますね。

 

大して強くもない槙島城に立て篭もったが……

一旦は和睦した両者ですが、根本的な原因が解決したわけではないので、京都周辺で再び戦になります。
信長は義昭に組する大名を倒し、義昭は二条城を家臣に任せ、自分は槙島城(現・京都府宇治市)に篭りました。義昭としては保身のつもりだったのでしょうが、槙島城は織田軍の猛攻に耐えられるような城ではありません。
打って出た兵は討ち取られ、四方を放火され、絶体絶命に陥った義昭は、ようやく降伏します。嫡男の義尋(ぎじん)まで差出してのことでしたから、もはや将軍の権威も何もあったものではありません。
とはいえ、当時たった1歳だったこともあってか、信長は義尋を斬りはせず、お寺に預けてそのままにしていたようです。

義昭については、ブッコロしてしまうと世間から「信長は主筋の将軍を殺して権力を奪い取ったサイテーな奴」と言われてしまいますので、縁戚の三好義継という大名のところへ行かせました。

信長公記によれば「切腹させてもよいけど、この判断は後の世の批判に委ねよう」だなんて、なんとも粋な表記で義昭の追放を描いております。

一方、京都を出て行く時の義昭は、市中の人々から「貧乏将軍」と嘲笑されたといいますから、日頃の将軍の情けなさを人々は感じていたのでしょうね。少なくとも尊敬はされてない。

その後、三好義継が滅ぼされると、義昭は、最終的に毛利家の所領である鞆の浦で隠棲し、61歳まで生きており、最後は豊臣秀吉の命令で細川幽斎が葬儀を取り仕切っております。その辺の話は以前取り上げていますので、よろしければどうぞ。

【関連記事】室町ラスト将軍足利義昭の長生きの秘訣は、剣豪(運動)と貧乏(質素)

こうして室町幕府は実質的に滅び、信長包囲網に加わった各勢力は大義名分を失い、いよいよ織田家の天下がやってくる――かに見えたのですが、その後は皆さんご存知の通りです。

長月 七紀・記

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参考:現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 槇島城の戦い/Wikipedia

 

 





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