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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

宇多天皇 いったん臣籍に降りながら皇籍に戻って、即位までしたレアケース

更新日:

 

皆さんご存知の通り、我が国の皇室は現在世界最古・最長の王朝です。
しかし、近年はご当人方のご尽力もあり、「はるか遠くの存在」という感じは薄れてきていますよね。

歴代の天皇の中でも、現代人にとって親しみを覚える方というのは珍しくありません。刀を好み、武士さながらの闘争心を持っていた後鳥羽天皇あたりは結構人気があるんじゃないでしょうか。
本日は別の方向で現代人に親近感がわきそうな、とある天皇のお話です。

承平元年(931年)7月19日は、宇多天皇が薨去された日です。

以前この記事(過去記事:にゃんにゃんにゃん2月22日は猫の日 人より家や物の相棒?だった猫の歴史【その日、歴史が動いた】)でご紹介した通り、ネット界隈では「黒猫に萌え萌えだった天皇」として有名ですね。
が、この方は他にも濃いというか、歴史的なエピソードがたくさんあったりします。さっそく見ていきましょう。

宇多天皇/Wikipediaより引用

 

在原業平と相撲をとったという逸話が伝わっている

宇多天皇の父は、皇室中年の星・光孝天皇(過去記事:55歳で即位し関白制度を作った平安時代中年の星・光孝天皇は元祖「そうせい殿様」か【その日、歴史が動いた】)でした。
しかし、比較的遠い血筋から即位した引け目もあって、光孝天皇は自分の子女のほとんどを臣籍に降しました。宇多天皇もその一人で、源氏姓を名乗っていたこともあります。

この頃のエピソードとして、当時のイケメン貴族として名高い在原業平と「殿上の間(天皇が執務をする部屋の次の間。貴族の控え室みたいなところ)で相撲をとり、椅子にぶつかって手すりが折れた」という逸話が残っています。降下していたとはいえ、親王殿下、何してるんでしょうか。
このときこそ「殿中でござる!!」とか言うべきだと思うんですけど、実際どんな叱責をされたんでしょうねぇ。宮中の言葉だともうちょっと違う表現になるでしょうが、こまけえこたあいいんだよ。

そんなこんなのうちに、光孝天皇が病気になってしまいます。元が55歳という(当時の)高齢での即位でしたから致し方ありません。
光孝天皇は上記の通り、自分の子供に皇位を継がせるつもりはありませんでした。しかし、他に適する人物もおらず、宇多天皇を後継とすることに決めるのです。
つまり、宇多天皇は一度臣籍に下ってから皇籍に戻り、さらに即位したというレアな経歴を持っているというわけです。

「臣籍に下ってから後々皇籍に復帰した」とか、「臣籍に下った元皇族の子供が皇籍になった」という例は他にもあるのですが、即位までした例は宇多天皇だけなので、ホントは教科書などでもっと大きく取り上げられてもいいんですよねえ。
時代の流れにはあまり影響していないので、マイナー扱いになってしまっているのかもしれません。

相撲を取ったとされる在原業平/Wikipediaより引用

 

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藤原基経を「阿衡」職に任じたところ自宅でヒッキーに

そんなややこしい経緯で即位した宇多天皇でしたが、即位後もいろいろと面倒事に揉まれていきます。
父・光孝天皇の関白だった藤原基経との関係があまり良くなかったからです。基経からすると「アイツ、うちとほとんど血縁がないから口出しにくい」という感じでしたし、宇多天皇は「私は直接政治をしたいのに、なぜ基経がこんなに出しゃばってくるんだ」と思っていたのでした。
それでも前の天皇の関白であり、政治経験の豊富な基経をいきなりクビにするわけにもいきません。そこで宇多天皇は「阿衡(あこう)としてこれからもよろしく頼む」という命を下し、橘広相(ひろみ)という貴族に持っていかせました。

が、この阿衡という職に対し、とある学者が「それ位だけ高くて実権がない立場のことですよwww 左遷おめでとうございますwwwwww」(※イメージです)と基経に言ってしまったため、基経がプッツン。
「そんな扱いするんならもう仕事しません!」と家に引きこもってしまい、半年も政務が山積みになるという椿事(ちんじ)が起きました。
宇多天皇は「言い方が悪かった。これまで通り仕事をしてくれ」と頼みましたが、なかなか基経の怒りは解けません。本来であれば臣下である基経がゴネるのもおかしな話なのですが、そこは藤原氏という印籠のおかげです。

宇多天皇が強気に出てこないとわかった基経は、「そこまで言うなら、私に失礼な文を持ってきた広相を処分してください。そうしたら仕事しますよw」とのたまいます。
もちろん広相はただ天皇の命令を伝えただけですから、何も悪くありません。宇多天皇もそれはわかっています。
しかし、広相を処分しなければどうにもならないということは、宇多天皇も他の貴族たちも重々理解していました。

 

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藤原北家の影響を嫌い、有能な他家の人物も重用す

最終的に、宇多天皇は涙を呑んで広相をクビにし、基経へ仕事に戻るよう改めて命じました。

基経は「えー処分って言ったら普通流刑でしょ?」(※イメージです)とゴネ続けましたが、ここでこの政争を聞きつけた菅原道真が「これ以上揉めると、基経殿にとっても藤原氏にとってもよろしくないのでは?」と仲介に入りました。

やっと頭が冷えたのか、基経は仕事を始め、この「阿衡事件」と呼ばれる一連の騒動は治まります。
しかし、宇多天皇はこのことを悔しがり、日記にその無念振りを記していました。また、最終的に味方になってくれた道真に感謝し、基経が亡くなった後重用するようになります。

阿衡事件によりますます藤原氏(北家)の影響を嫌った宇多天皇は、そちらへも一定の配慮をしつつ、他の家出身でも有能な人物であれば登用していきました。
上記の道真をはじめ、以前ご紹介した藤原保則(過去記事:平安時代の秋田の「元慶の乱」を鎮圧したのは武力よりも太陽政策【その日、歴史が動いた】)を採用したのも宇多天皇の意向によるものです。
遣唐使を廃止し、歌合せ・菊合わせなどの文化的なパーティーも積極的に行ったことで、日本独自の文化が花開いていった時代でもありました。
なお、◯◯合わせというのは、今でいう品評会みたいなものです。個人戦ではなくチーム戦で、集まった人々を左右のチームに分け、判者(審判)が一組ずつ優劣を決めていき、最終的に「優」の多かったほうが勝ちというやり方でした。
歌合せが一番有名ですが、芸術的なものなら何でもこういった勝負をやっていたようです。有名どころでいくと、源氏物語の中に絵合わせや香合わせのシーンがありますね。

菅原道真が重用されるが……/wikipediaより引用

菅原道真が重用されるが……/wikipediaより引用

 

ワタシを助けて!by 菅原道真

そんな感じで、ある意味日本の政治や文化の父ともいえるのが宇多天皇なわけですが、在位十年にして息子の醍醐天皇に突然譲位してしまいます。
醍醐天皇が生まれたときは宇多天皇がまだ源氏姓だったため、正当性を中徴するためともいわれていますが、定かではありません。他にも仏門に入るためだとか、藤原北家からの影響を極力減らすため、元気なうちに院政を行えるようにしたかったからだとか、いろいろな説があります。全部かもしれません。

息子への置き土産として、道真を権大納言という朝廷のナンバー4(※イメージです)につけたりもしました。道真は道真で元の身分が低いために、他の貴族からやっかみを買ってしまったりもしたのですが、これは宇多天皇がやんわりしかりつけて仕事をさせています。
結局その後、道真は失脚してしまうのですが……。

それでも、道真にとって宇多天皇はずっと庇護者だったようで、太宰府へ行く直前に助けを求める歌を詠んでいます。
「流れゆく 我は水屑(みくず)と なりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」という歌で、意味としては「政略という水に押し流されてはるか遠くへ行ってしまいそうです。どうか助けてください」といったところでしょうか。

しがらみというのは現代では悪い意味で使われることが多い言葉ですけれども、元々は水の流れをせき止めるために作る柵のことです。既に位を退いているとはいえ、君主よりもエライ貴方様であれば、しがらみのような力で助けてくださいますよね、という意味もあったかもしれません。
この頃の宇多天皇は上皇というだけでなく、出家もしてさらに政治とは遠ざかっていたので、具体的に道真の力になることはできませんでした。

 

大河ドラマの主人公を張れるのでは?

しかし、道真が亡くなって京都に「祟り」が起き始めても、宇多天皇に害が及ぶことはなかったようですから、道真は宇多天皇のことは恨んでいなかったのかもしれませんね。

宇多天皇が亡くなったのは道真が死から28年後のことなのですけれども、その間に何か災いが起きたという記録もないようですし。息子の醍醐天皇には先立たれていますが。

その辺は当人のみぞ知るというところでしょう。臣籍から復帰したことといい、「文化の父」といい、愛猫家な面といい、何とも盛りだくさんな一生を送った御方というのだけは間違いなさそうです。

こうしてみると、この方だけで大河ドラマできそうですね。

平安時代以前は衣装等にお金がかかりすぎるせいで映像化が難しいらしいですが、もしそこがクリアできたらぜひ候補に入れてほしいものです。

長月 七紀・記

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参考:宇多天皇/Wikipediaより引用

 

 





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