宝くじで1億当たった翌日に交通事故にでも遭ったりしたら幸せとは言い難いでしょう。
本日はそんな感じで、「己の才能で一山当てたにもかかわらず、その後ジェットコースター並みの転落をした」というある作家のお話です。
1802年(日本では江戸時代・享和二年)の7月24日、アレクサンドル・デュマ(大デュマ)が誕生しました。
「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」(厳窟王)で日本でもよく知られている作家ですね。
作家というといかにもインテリなイメージがありますが、この人に限ってはウルトラCな経緯で創作の世界に入っています。
早速、その生涯を……といきたいところですが、この人のトーチャンがまず面白い生い立ちなので、そこから話していきますね。
デュマ本人の前半生にも大きく影響しています。
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奴隷として売り飛ばされたアレクサンドル・デュマの父
19世紀のヨーロッパというと、いかにも身分や人種の差別が激しい時代という印象を抱くかもしれません。
実はデュマには、黒人とフランス貴族の祖父母がおりました。
祖父も父も「アレクサンドル」のため、名前を出すと大変ややこしくなるので、名前を出さずに話を進めていきますね。
デュマの祖父は、当時フランスの植民地だったハイチでコーヒーやカカオのプランテーションを持っていたのです。
祖母はそこで奴隷として働いていた女性で、つまり使用人に手を出したということになるわけです。まあ、当時の価値観だとそうなりますよね。
祖母が亡くなった後、デュマの父を含めた四人兄弟は一時奴隷として売り飛ばされてしまうのですが、祖父はフランス帰国時に息子たちを呼び集め、その後はきちんと教育を受けさせていました。何考えてたんでしょう、このジーチャン。
そしてデュマの父は陸軍に入り、ルイ16世やナポレオンに仕えました。
しかし、エジプト遠征のときナポレオンを真っ向から批判したため、フランスに送り返されることとなります。
その途中でナポリ王国(現在のイタリア南部にあった国)に捕まってしまい、二年間ひどい環境で監禁されていました。
やっと帰国したはいいものの、フランスの制度が変わって「黒人との混血なんて軍にイラネ」(超訳)と言われてしまい、軍を去ることになります。
真面目に仕事してたのにひどい話ですね。
これが1801年のことなので、デュマが生まれる前年にあたります。
落ち込んでたんだか気にしてなかったのかサッパリわかりませんが、デュマの父は1806年に43歳で亡くなっていますので、せめて最後に子供が欲しいと思ったのかもしれません。
まともな教育も受けられず、15才から公証人役場で働き始める
そんな感じでデュマが生まれる前からかなりドラマチックな物語ですが、生まれてからもダイナミックな展開が続きます。
ナポレオンはデュマの父を嫌っていたので、遺族に年金を支給しませんでした。
そのため、大黒柱を亡くした母子はとても貧しい生活だったようです。仕事への私情の持ち込みダメ絶対。
デュマはまともな教育を得る機会がないまま育ち、15歳で公証人役場へ勤めることとなります。
「法律に詳しくない人を手伝って公的な書面を作る」という仕事で、たとえば遺言書を作ったりします。
いかにも専門知識が必要な仕事っぽいですが、デュマは見習いとして公証人役場の仕事を始めているので、おそらくや「体で覚えろ」的な感じだったんでしょう。
もしくは雑用しかしてなかったのかもしれませんが。
シェイクスピアの「ハムレット」を見て大いに感激!
デュマはもともと勉強が好きなタイプでもありませんでした。
それでもある程度は真面目に公証人として働いていたようで、次第に観劇などの娯楽にお金を使える程度の収入は得られるようになります。
そしてある時シェイクスピアの「ハムレット」を見て大いに感激!
「俺もシェイクスピアみたいな劇を書きたい!」
と奮い立ち、劇作家への道を歩み始めます。観劇だけに、ヒデキ、かん……何でもありません。
その後、デュマは父の友人の紹介で、後のフランス国王ルイ=フィリップの秘書として仕えることになりました。
そこで今まで触れてこなかった文学や歴史の書物から教養を身につけ、劇の台本を書き始めます。
「ゼロからの出発」ですから、当然ながら、そう簡単に売れっ子にはなれません。
大当たりしたのは、28歳のときに書いた「アンリ3世とその宮廷」という戯曲です。
アンリ3世とはここからずっと昔のフランスの王様です。
以前ユグノー戦争のお話をしたときに出てきているので、よろしければそちらもどうぞ。
↓
ユグノー戦争と三アンリの戦い~仏の宗教戦争中にアンリvsアンリvsアンリ
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豪邸を建て、女優たちと浮き名を流し、散財っぷりがマジやばい
無事に売れっ子作家となったおかげで、デュマはフランス史の教師から協力を得ることができ、歴史小説の世界へも乗り出していきました。
代表作「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」(厳窟王)などはこの頃書かれたものです。
そして今でいうところの印税生活に入ると、一気に大金を手にした人によくあることで、使うときもあっという間でした。
豪邸を建てるわ。
毎日パーティーを開くわ。
女優たちとアバンチュールを楽しむわ。
散財っぷりが半端なかったのです。
レンブラントもお金の使い方は豪快でしたが、あちらは作品の資料のためにモノを買っていたのに対し、デュマの場合は完全に遊んでますから弁護のしようがありません。
その名も「光の魔術師」画家レンブラントが破産同然で絵を手放すまで
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一応、劇場を建てて自分の作品を上演させたりもしていましたが、何せ使う金額の比率がヤバイ。
本人は「最初に戻っただけ】かもしれんけど残された子孫たちは…(´・ω・`)
息子の小デュマも作家の道へ
パトロンだったルイ・フィリップたちが国を負われ、フランスという国自体が再び混迷を迎えると、デュマの実入りも途端に悪くなりました。
みんな娯楽にお金を使っている場合ではなくなってしまったからです。
そしてデュマは見事裁判所から破産を言い渡されてしまい、債権者から逃げるため、一時ベルギーに行っていました。
その後、債権者とは示談が成立したものの、再び収入が増えることはなく、1870年に亡くなったときにはほとんどの財産がなくなっていたとか。
デュマの息子も通称「小デュマ」と呼ばれる作家ですが、彼もまた父と同じく豊かとはいえない環境で苦労を重ねて作品を書いています。
普通苦労した人って「子供には同じ思いをさせたくない」と考えるものですが、デュマは違ったようですね……。
まあ、普通の人と同じ感性だったら創作で大当たりなんてできないでしょうけど。
ちなみにデュマ本人は「パリに来たときもこの程度の金しかなかった。最初に戻っただけだ」と言い残したそうなので、あまり後悔していなかったようです。
そりゃアンタはいいだろうけども、残される家族のことも考えてあげてよ(´・ω・`)
ある意味、理想的な人生かもしれませんが、子供や養うべき人がいる方は真似をしないほうがよさそうですね。って、真似できるわけないか。
長月 七紀・記
【参考】
アレクサンドル・デュマ・ペール/Wikipedia