日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

その日、歴史が動いた 諸家

初代江戸城を建てた太田道灌 は 合戦、築城、学問に通じた万能武将だったが……

更新日:

 

有名なモノの生みの親でも、「子供」のほうが存在感があり過ぎると、親のほうは存在を忘れられがちですよね。
本日はそんな中から、誰もが知っているアレの「親」の話です。

文明十八年(1486年)7月26日、太田道灌(どうかん)が亡くなりました。最初に江戸城を作った人として有名ですね。

当コーナーでは一度、愛猫家として紹介したこともありました(過去記事:にゃんにゃんにゃん2月22日は猫の日 人より家や物の相棒?だった猫の歴史【その日、歴史が動いた】)。

俗名は「資長」で、道灌は出家後の名前なんですが、例によって有名なほうで統一させていただきます。

広い意味で現在の皇居の親ともいえる彼は、一体どんな生涯を送ったのでしょうか。

tomorroweye50

 

千葉方面の守りを固めるために初代江戸城を建てた

道灌は永享四年(1432年)、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉氏の家臣の家に生まれました。
この辺のことはものすごくややこしいのですが、以前少しだけ触れていますのでこちらをどうぞ→過去記事:関東支配と上杉家を巡る名門バカ+下克上男のややこしすぎる争い【その日、歴史が動いた】
正確にいうと道灌の時代より後の話なんですけれども、大体の雰囲気はつかめるかと。

同族同士の争い&登場人物の苗字がほとんど同じという、後世の人間からすると「めんどくせえから皆仲良くしろよ」とでも言いたくなる有様です。
道灌は母方の祖父と実父がこの一連の争いの勝ち組になったことで、中央からも官位をもらい、現在の東京都品川区あたりに立派な屋敷を建てていました。

が、その後勝ち組と負け組がひっくり返されてしまい、相手側が足利一門のお偉いさん・古河公方を担ぎ出してきたことで、ますます話がこじれて足掛け30年に及ぶ「享徳の乱」に発展してしまいます。
道灌は主家の扇谷上杉家を補佐して戦い、父と共に現在の埼玉県各所に築城もしていました。
この戦いはおおむね利根川が勢力圏の境目になっており、千葉方面の守りを固めることが重要になってきます。そこで築城されたのが初代江戸城です。

 

スポンサーリンク

知識人・道灌は戦術や築城術だけでなく学問などにも精通

この立地を選ぶまでにはいくつかの伝説があり、元々この辺りの領主だった江戸氏を追い出すための口実であるとかないとか。いやぁ、黒いですねぇ。そうでないと戦国大名なんてやってられないですけどね。

とはいえ、道灌は日枝神社など江戸城守護のために神社をいくつか建てており、天をも恐れぬというタイプではなかったようです。
兵の鍛錬もしっかりやっており、怠ける者から罰金を取る代わりに、真面目な者へのお茶代としてあげていたとか。なんだ理想の上司じゃないか。

道灌は元々鎌倉のお寺や足利学校など、当時の関東ではかなりいいところで学んでいた人ですので、戦や築城以外の知識も豊富でした。自ら和歌を詠んだり連歌会や歌合せなどを行った記録も残されています。
しかし、そんな平穏?は、主家のお偉いさんだった長尾景信という人がなくなると同時に破られます。この人の息子・景春がお偉いさんの地位を継げず、叔父が継いだことで不満を抱いたのです。
さらにあろうことか、扇谷上杉家と長年争ってきた敵であるはずの古河公方と手を結んでしまったことで、一筋縄ではいかなくなりました。

 

スポンサーリンク

長尾景春の乱では八面六臂の大活躍だったが

道灌は主家を助けて景春と戦い、さらに古河公方に単独講和を持ちかけることで景春の外堀をまず埋めました。
そのまま景春の居城を攻めて追い出しましたが、その後も景春は粘り強く逃げ回り、道灌が亡くなった後まで戦い続けています。すげえ根性だ。
まあその辺は別の話ですので、話を道灌に戻しましょう。

そんな感じで文武両道かつ八面六臂の大活躍をした道灌なのですが、いつの時代も有能な人をやっかむ無能は存在します。
いつしか「道灌は主の定正様よりもデカイ態度を取っている!けしからん!!」と言い出す者が現れ、さらにあることないことを定正に吹き込む連中まで出る始末。

道灌も自ら「今の扇谷上杉家があるのはわしのおかげである」と書いてしまっているので、全く原因がないわけではないんですけどね。しかも39か条も自分の活躍を書いてしまっているのですから、これでは鼻についた人がいてもおかしくはありません。口ならぬ筆は災いの元でした。

とはいえ、道灌も身に迫る危険についてはひしひしと感じていたらしく、長男を和議の人質として古河公方の下に送っていたりします。

そしてその予感は、文明十八年に見事的中してしまいました。

長引く関東の争乱を引き起こした長尾景春の乱/Wikipediaより引用

 

予言通り(?)上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれる

道灌は、主・定正の館に招かれると、そこで暗殺されてしまったのです。

首謀者は定正とも他の人ともいわれており、また暗殺時の状況についてもはっきりしていません。一説には「道灌は風呂場から出てきたところを斬られ、『当方滅亡!』と言い残して死んだ」といわれていますが、一体どうだったのやら。

道灌の一族や道灌に味方する人々は、この有様を見て「もう扇谷家はおしまいだー!」(※イメージです)と即断し、ライバルである山内上杉家へ身を寄せました。
そしてまたしても長い長い戦いが続き、道灌の予言通り双方の上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれ、長尾景虎こと上杉謙信を頼ることになるのです。

当時の寿命からして、暗殺されなくても道灌はあと十数年で亡くなっていた可能性が高いですが、もし彼がここで殺されていなかったら、関東の勢力図は一風変わったものになっていたんでしょうね。

有能だからといって孤立するようなことをしてしまうと何もかもうまくいかないという好例でしょうか。いわんや凡人をや。

長月 七紀・記

スポンサーリンク

参考:太田道灌/Wikipedia

 

 





1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 史実の真田幸村とは?


3位 長篠の戦い 注目すべきは…


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ


-その日、歴史が動いた, 諸家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.