杉原千畝の自筆ビザ/Wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 WWⅡ その日、歴史が動いた

杉原千畝はユダヤ人1万名をどう救った?命のビザを発給し続けた異例の外交官

更新日:

シベリア鉄道で逃げるためユダヤ人が押し寄せてきてた

彼らを救うべく、まずヤン・ズヴァルテンディクというオランダの領事が動き出しました。「ユダヤ人はビザなしでオランダ領に行っても良い」という書類を作り始めたのです。
これを得たユダヤ人達は、当初トルコを経由してパレスチナに向かっていました。が、トルコがユダヤ人の通過を拒否するようになると、このルートが使えなくなってしまい、ユダヤ人たちは再び危機に陥ります。

そこで、シベリア鉄道経由で逆方向に逃げるため、ユダヤ人たちは日本領事館を頼ってきたのでした。
午前六時ごろから、ビザを求める人々が杉原のいる領事公邸に押し寄せて来たということを、杉原は後々回想しています。

上記の通り、日本政府としてはユダヤ人の救済を積極的にするつもりはありませんでした。しかし、現地や近隣の情報から迫害の状況を知っていた杉原は、命令に逆らってでもユダヤ人を救う道を選びます。
何せ、押し寄せるユダヤ人達は老若男女着の身着のままといった様相で、ざっと見えただけでも100人以上いたというのですから。

ドイツ人に焼かれたシナゴーグ(ユダヤ教会)/Wikipediaより引用

 

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万年筆を握った腕は痛みで動かなくなる

日本政府としてもさすがに「送り返せ!」とは言っておらず、「日本経由でアメリカやカナダに行こうとする“リトアニア人”が多すぎるので、お金のある人以外は断るように」としていました。

それでも杉原はビザを発行し続けました。
当初万年筆を使って手書きで発行していたものの、そのうち痛みで腕が動かなくなり、ゴム印を使うようになっていたそうです。
そうして一ヶ月あまりに渡って2000枚以上のビザを発行しましたが、当時リトアニアを支配していたソ連、そしてなにより日本政府から「はよ出て行け!!」という命令が再三にわたって届き、これ以上無視することはできなくなりました。

退去の日、ユダヤ人たちは杉原の姿が見えなくなるまで列車と併走したり、叫んでいたと言います。

当時のビザは一家族に一枚あれば充分だったので、仮に一家四人とすると、8000人のユダヤ人が杉原によって救われたことになります。
この他にも記録されていない渡航証明書があったそうなので、軽く1万人は超えているでしょう。平均してか最低値なのか、「6000人」といわれていることが多いようですが。

 

ウラジオストックの根井三郎も杉原の方針に賛同

それでも残念なことに、翌年、独ソ戦が始まってからリトアニア周辺だけでも数万人のユダヤ人が犠牲になっています。また、シベリア鉄道のチケットが買えず、途中で命を落とした人も多々いました。

しかし、世界各国には「私の父や祖父はスギハラ氏に救われた」と感謝している人が今もたくさんいます。
そういう輝かしいことを成し遂げた人なのですが、当人の存命中は日本政府から冷遇され続けました。いろいろ小難しい理屈はあるのですけれども、一言でまとめると「政府の命令に逆らったから」です。

これ、インドネシアでの今村均中将(過去記事:マッカーサーが「真の武士道」と認めた軍人・今村均 この人格者には感涙必至です 【その日、歴史が動いた】)も似たようなことを言われていましたね。人道と形式とどちらが大事だと思っているのやら。

一方で、ウラジオストックにいた総領事代理・根井三郎は、杉原の方針に賛同しています。やっとの思いでたどり着いたユダヤ人たちに同情した彼は、日本政府へ「日本の領事が出したビザをそう簡単に無効扱いしては、わが国の威信を損なうことになるのでは?」(意訳)と、政府のプライドを逆手にとって抗議しました。

その裏で、本来漁業関係者に与えるはずの乗船許可証をユダヤ人たちに発行し、やはり命を救っています。
杉原と根井は日露協会学校の同窓生とも先輩後輩ともいわれているので、同校の教育が良かったといえるかもしれませんね。
また、外務省は命令を守らない彼らにビキビキしていましたが、ときの外務大臣・松岡洋右は個人的にユダヤ人迫害を嫌がっていたようなので、陰ながら認めていた可能性がなくもないですね。松岡も昔、ユダヤ人救済のために列車を動かしたことがありますし。

話を杉原に戻しましょう。

 

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終戦から23年後にイスラエルで再会を果たす

リトアニアから強制退去させられた杉原は、その後、ヨーロッパ各地の公使館などを転々。日本へ帰国したのは終戦後の昭和二十二年(1947年)でした。
その後は一時神奈川県藤沢市に住みましたが、外務省から退職を促されたり、息子や義理の妹を失うなど、不幸が続きました。
昭和四十年(1965年)からは新たに就職した会社のモスクワ支店に配属され、再び渡航しています。

しかし、嬉しいこともありました。
終戦から23年後の昭和四十三年(1968年)、かつてリトアニアを去る杉原を見送ったユダヤ人の一人とイスラエルで再会することができたのです。
何でこんなに時間がかかったのかというと、「“チウネ”じゃ外国人には読みづらいだろう」ということで、”センポ”と呼んでもらっていたからです。そのため元難民達が日本へ問い合わせても「誰それ?」と言われてしまって、なかなか見つからなかったのだとか。
……音読みと訓読みの違いくらい、ちょっと頭を使えば気付きそうですけどね。当時の担当者がよほどへそのねじ曲がった人だったのかもしれません。

しかし、杉原もいつかは元難民達に会いたいと考えていたので、イスラエル大使館へ行って自分の住所を教えていました。そのおかげで再会が叶ったというわけです。

 

されど日本政府や国民からは冷遇を受け続け……

その後も日本政府や国民の冷遇振りは変わらず、「ユダヤ人から金をもらってたからやったんだろw」「国賊め!」といったゲスいにも程がある中傷も多々あったといいます。
直接は関係ありませんが、戦後にヘレン・ケラーが来日したときも「盲目を売り物にして荒稼ぎしているけしからん奴だ!」という感じの人がいたそうですし、恥ずかしい話ですね。
それだけ、当時の日本人がストレスのはけ口を探していたということになるのかもしれませんが……。
昭和三十一年(1956年)には「もはや戦後ではない」と言われていたのに、この有様ではへそで茶が沸くどころか蒸発してやかんが焦げ付こうというものです。

一方で、イスラエル政府からは杉原へ「諸国民の中の正義の人」「ヤド・バシェム賞」などが贈られたり、それ以前に他国からも「彼の功績を認めないのはおかしい」と高く評価されていました。

日本で彼の偉業が公式に認められたのは、彼が亡くなってから14年も経った平成十二年(2000年)のこと。それでも外務省の中には反対する人がいたとかいないとか。いつまで戦時中の感覚を引きずってるんですかね、まったく。

ただ、その頃から杉原を取り上げる番組や書籍が多数出てきたことで、現在では輝かしい日本人の一人として知られるようになってきましたね。
厳密にいえば迫害が起きないことが一番なのですが、彼の功績は功績として、これからも語り継いでいきたいものです。

長月 七紀・記




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【参考】
杉原千畝/Wikipedia

 



-明治・大正・昭和時代, WWⅡ, その日、歴史が動いた

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