イタリア

ヴェスヴィオ火山の噴火により一晩で消えた街・ポンペイとは?

西暦79年8月24日は、イタリアでヴェスヴィオ火山が噴火しました。

日本では弥生時代の頃。
この噴火によってふもとのポンペイという町が灰に埋もれてしまったことは割とよく知られていますよね。

当サイトでも以下の記事で報じておりますので、今回は、この日以前のポンペイやヴェスヴィオ火山を詳しく見ていきたいと思います。

まずは山のほうからいきましょうか。

ポンペイの悲劇~ヴェスヴィオ火山の噴火で1万人の都市が一晩で消えた

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【TOP画像】火砕流に巻き込まれて亡くなったポンペイの人々は、火山灰の下で永眠。灰の中にできた空洞に石膏を流し込んで現代に復元させたのが写真の石像photo by arlo Mirante@flicker

 

町の発祥となったのは、あの暴君・ネロ!?

ヴェスヴィオ火山は、この大噴火の前からイタリアではよく知られた山でした。

紀元前の時代から何回か噴火していましたし、あのDV皇帝・ネロが小さな噴火の後に、ふもとの町を再興させたこともあったのです。

これが後々埋もれてしまったポンペイの町の発祥になりました。

また、紀元前73年には、ローマの剣闘士奴隷・スパルタクスが待遇の改善を求め、仲間とともに立て籠もって戦う事件もありました。

いわゆる「スパルタクスの乱」ですね。

バレエや映画などの題材になっているので、彼の名をご存知の方も多いかと思われます。ただ、その舞台がヴェスヴィオ山だったというのはあまり知られていない気がします。

こういう繋がりを見つけていくのも歴史の醍醐味ですね。

一方、一晩で火山灰の下に埋もれたポンペイの町は、ナポリとベスビオ山を挟んで反対側の位置にあります。

ちなみに、ナポリ(当時はネアポリス)には噴火の影響はあまりなかったようで。
山からの距離もあまり変わらないなのですが、噴火口の位置や風向きの問題ですかね。

上記の通り、現在遺跡となっているポンペイの基礎を作ったのはネロ。
しかし、このあたりにはずっと前から集落が存在していたといわれています。

たぶん79年の大噴火以前にも度々噴火していたと思われますが、それでも人が住み続けていたのは、やはり普段は便利であり、あるいは先祖代々住んでいての愛着などもあったでしょう。

現代でもたまに、活動火山の近くに住んでいる人に対して「引っ越せばいいのに」とpgrする人がいますが、「災害の危険があっても住み慣れた場所のほうがいい」という感覚は、古今東西共通のようです。

 

美と愛の女神ウェヌスが崇められていて……

現在ポンペイの遺跡では「◯◯の家」という名前の遺構が複数あります。
この「◯◯」にはギリシアやローマの神様の名前が入ることが多いようです。

すでにキリスト教は生まれていましたが、西暦二ケタの時代ですから、まだまだ信仰の一宗教に過ぎませんでした。
ですので、ポンペイは「多神教だった頃のローマ」を垣間見ることができる町でもあるということになります。

中でも一番に崇められていたのは、美と愛の女神ウェヌス(英語読みヴィーナス=ギリシア神話のアフロディテ)です。
これだけ聞くと、何やら博愛主義の素晴らしい町だったかのように思えますが、半分だけ違います。

このあたりの時代がお好きな方は多分ご存知だと思うのですが、ローマ時代の人々は基本的に「やりたいと思ったことは全部思い通りにやらないと人生つまらんだろJK」(超訳)という考え方でした。

詳しく書くとお食事中の方や年齢制限的によろしくないので伏せますが、衣食住+人間の三大欲求は全て満たされるべきだとされていたのです。
そこに「愛」が絡むとどうなるか……という話ですね。

そんなわけで、ポンペイにはそんな感じの壁画や施設の遺構も数多く残っていたりします。

とはいえ当時の常識が上記の通りなので眉をひそめるようなことではないですし、最盛期の人口は2万人を越えていたといわれていますから、むしろ良かったのかもしれませんが。

「何言ってんのかサッパリわかんねーよ!」という方はどうぞそのまま純粋でいてください。

また、ポンペイはワイン作りの盛んな町だったため、デュオニュソス(=バッカス)というお酒の神様も信仰されていたようです。

これは余談ですが、アフロディテとデュオニソスはきょうだいだったりします。

どっちが年上なのか不明ながら、二人(柱)とも父親はギリシア神話の最高神こと浮気の帝王・ゼウス。
ウェヌスとアフロディテは元々違う神様でしたが同一視されるようになったので、間接的にウェヌスとデュオニュソスもきょうだいということになりますね。

多神教の神様は人間くさいというかリアルすぎるというか。

 

記録に出向いた大プリニウスも煙と灰に巻き込まれ

そんな町が一夜にして埋もれてしまったのは、皆さんご存知の通りです。

実はこのとき、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)という人が「絶好の調査対しょ……もとい、住民の救出に向かうぞ!」とポンペイに向かったのですが、彼もまた煙と灰に巻かれて亡くなってしまいました。

ちなみにこの人、軍人かつ博物学者かつ政治家という「お前完璧すぎんだろ」とツッコミたくなるような経歴の持ち主です。

残念ながら著作のほとんどは散逸してしまったと言われていて、かろうじて残されていた『博物誌』が、当時に関する唯一の資料になっていた(ルネサンス期=1500年後まで)そうで、他の本も残っていたらもっと有名になっていたかもしれませんね。

レオナルド・ダ・ヴィンチといい、大プリニウスといい、複数の分野で大きな才能を表す人がいるのは不思議なものです。

実は、この変態的な天才(褒め言葉)の甥っ子である小プリニウスが、伯父の死と共に噴火の記録を残したため、ヴェスヴィオ火山の噴火とポンペイが灰に埋もれた経緯が知られるキッカケとなりました。

ポンペイといえば住民の苦悶の表情が浮かび上がった石膏像が有名ですが、噴火が収まってから三日後に見つかった大プリニウスの遺体は、穏やかな死に顔をしていたそうで。

知れば知るほど埋もれたことが惜しいポンペイですが、灰のおかげで後世に残ったものもありました。

特に壁画の色については、18世紀に発掘が始まるまで、ほぼ当時のまま残っているといわれています。
中でも赤い色の美しさは格別で、「ポンペイ・レッド」とまで呼ばれているとか。
他の美術品や町並みについても、そもそも埋もれていたために盗掘や天候による破損などがなく、「ローマがそのまま現れたかのようだ」と絶賛される程という。

現在も発掘は進んでいます。
が、それは長年遺構を守ってきた灰がなくなるということも意味します。

その辺のお話は以下の記事にございますので、併せてご覧ください↓。

形あるものがなくなるのは自然の摂理ですが、完全に崩れ去ってしまう前に、できるだけ写真や記録を残しておいてもらいたいものですね。

長月 七紀・記

【参考】
ヴェスヴィオ/Wikipedia
ポンペイ/Wikipedia

 



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