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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

明治天皇の東京奠都 TOKYOは「東の京都だから東京」はマジです

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冠婚葬祭ほどではないにしても、人生でそこそこ大掛かりなイベントといえば引越しですよね。
転勤族の方は慣れっこかもしれませんが、何かとお金や人手がかかりますし。
一般庶民でもそうですから、これが国の根幹に関わるようなお偉いさんとなればもう、べらぼうな手間がかかります。
本日はその最たる例であろう、あの方のお引越しのお話です。

1868年(明治元年)9月20日は、明治天皇が初めて東京へ向かって出発した東京奠都の日です。

実質的にはこのときから首都は東京扱いになっていたようですが、ここまでくるにもさまざまな紆余曲折がありました。
そもそも戊辰戦争の真っ最中ですしね。

どんな感じだったのか、さっそく事の経緯を見ていきましょう。

【TOP画像】明治天皇の東京行幸を描いたLe Monde Illustreの絵画/Wikipediaより引用

 

大阪では公家や京都市民が大反発! そこで……

倒幕の後、明治新政府の中では「新体制になったことを明らかにするために遷都が必要だ」と考えられました。
当時まだ東日本の政情が不安定だったため、第一候補は大阪になり、その予告的な意味で大阪行幸(天皇のお出かけ)が決まります。
が、いざ出てみると、遷都を予感した公家や京都市民が大反発。大阪遷都は白紙となりました。

ここで江戸城無血開城が成ったため、「大阪よりも江戸に都を移したほうがいい。でないと、将軍を失った江戸には人が住まなくなってしまう」という意見が出ました。
しかし、ここでもやはり公家や京都市民は「まだ戊辰戦争も終わっていない危ないところへ陛下を行かせるわけにはいかないでしょう!」と大反発。そりゃ京都よりずっと遠いですしね。

そこで遷都派のお偉いさん方が考えたのが、「今まで皇室と縁のなかった東日本を治めるには、やはり陛下に江戸へ移っていただいて人心をつかむことが大切である」「江戸を”東の京都”とし、いずれは二つの都を鉄道で繋ぐ」という割とへりく……もとい、柔軟な案でした。

これに続いて徳川家が駿府に移ることも決まると、いよいよ明治天皇のお引越しが実行に移されます。
まずは正式に江戸を東京と改称する詔書が出され、”東の京都”だから天皇が行くことには問題がないのだということを広く知らせました。

実は、この後に明治天皇の”即位の礼”が執り行われています。戦に直接関わることはないにしても、宮中もバタバタしていたことがよくわかりますね。
そして9月20日、明治天皇は公家や護衛の武家たち総勢3300人を引き連れ、東京へ向かいます。

初日の宿泊地は現在の滋賀県大津市御幸(みゆき)町で、元から東海道の最大の宿場町として有名なところです。実はあの大津事件(過去記事:ロシア皇太子 日本で暗殺されかける 大津事件 【その日、歴史が動いた】)の現場も近かったりします。
大津事件が起こったとき、明治天皇は「あの町でそんなことが起きてしまったのか」という点でも驚いたでしょうね。

長崎訪問時のニコライ二世。この後、大津事件に……/Wikipediaより引用

 

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行ったきり戻らないと今度は京都がヤバい

一行が東京へ到着したのは10月13日のことでした。
当時まだ16歳だった明治天皇が、「江戸城は大きいなあ」と少年らしい感想をもらしたのは有名な話かもしれません。

しかし、行ったきり全く帰らないのでは、京都の人々の動揺は計り知れません。ただし、いきなり帰ってしまっては東京の人々にも疑念が生まれてしまいます。
そこで先代・孝明天皇の三年祭(神道でいう三回忌のようなもの。ただし亡くなった翌年から数えるため、仏教とは一年ずれる)と、皇后を正式に決めるために戻るのだと言い置くことになりました。実際にこの二つは行われています。

その後も明治天皇と昭憲皇太后は、東西両京の人心を落ち着かせるため、度々行き来をしました。
正式に東京へ留まることになったのは、通称「明治宮殿」と呼ばれる戦前の皇居が出来てからのことです。

ついでですので、明治天皇から現代に至るまでの天皇の住まいについてまとめておきましょうか。

・1868~1873年 江戸城西の丸御殿

・1873~1888年 旧紀州藩江戸藩邸=青山御所=赤坂御用地

・1888~1945年 明治宮殿

・1945年5月25日 空襲により明治宮殿焼失
御文庫(皇族用の防空壕を兼ねた建物)を仮の御所、宮内庁庁舎三階を仮の宮殿に

・1968年 新宮殿落成(現在の皇居)

だいたいこんな感じです。戦後しばらく宮殿が造られなかったのは、昭和天皇が「国民が難儀しているときに、新しく宮殿を建てることはできない」とおっしゃっていたからだそうで。

昭和天皇の戦後というと全国巡幸をされたことが有名ですが、あれはいわゆる仮住まい中のことだったんですね。

 

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寝殿造に近い構造だった明治宮殿

また、明治宮殿にもちょっとしたエピソードがいくつかあります。

明治天皇は代々続いていた「形」というものを非常に大切にする方だったので、明治宮殿はいわゆる寝殿造に近い構造になっていました。

しかし、これが嵐や冬の寒さに対して無防備、かつ洋装化で薄着になったことにより、秋冬は難儀することも多かったようです。
特に昭憲皇太后や女官たちは十二単から洋装になっていますから、冬の寒さは辛かったとか。そりゃそうですよね。
ちなみに夏の暑さについては、明治天皇いわく「熱いものを食べて汗をかいたほうが良い」ということで熱いものを食べたり、スイカを食べたりしてしのいでいたそうで。

皇室や皇居というと我々庶民にとっては雲の上のような存在ですが、中身はやはり人間なんだなあということがうかがえますね。

引越し一つするだけで何十・何百万もの人心に気を使わなくてはならない分、損な役回りかもしれません。

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長月 七紀・記

参考:東京奠都/Wikipedia 明治神宮崇敬会 明治宮殿/Wikipedia





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